沖縄から全国へ広まった苦瓜、なぜ「ゴーヤー」?

類まれなる“苦い作物”をめぐる歴史と科学(前篇)

2019.07.12(Fri)漆原 次郎

 日本にも戦争の気配がしてくると、都市でも食用栽培すべき作物としてゴーヤーが伝えられるようになる。1941(昭和16)年10月8日付の朝日新聞東京版朝刊には「食料増産へ 空地利用の菜園には家庭向の種子を選ぶこと」との見出しが見られる。生垣を利用する作物のひとつに「にがうり」を挙げ、「にがうりは味噌と油でいためると大へん美味しく食べられます」と農林省(現・農林水産省)の技師が推奨している。

 だが、都市に作物としてのゴーヤー・ニガウリが根づくことはなかった。薬学博士で明治薬科大学教授だった戦前生まれの本橋登は、「1945年以降の戦後まもない頃、東京でも栽培されていたが、苦いので、当時はあまり普及しませんでした」と述べている。

 1981年8月4日の朝日新聞東京版朝刊にあるのは「ニガウリ静かなブーム」という見出し。「静かなブーム」という表現から、都市圏での本格的普及は遠いことがうかがえる。「グロテスクだが栄養たっぷり」という見出しもあり、ゴーヤー・ニガウリと縁遠い人たちの当時の敬遠ぶりも垣間見られる。

 ゴーヤーは産地以外では「地方野菜」のひとつに過ぎず、さほど知られる存在ではなかったのだ。

ウリミバエ根絶、育種を経て1990年代、ついにゴーヤーが全国化

 地方野菜だったゴーヤーが全国的に普及したのはどうしてか。そこには産地の人びとの取り組みがあった。

 沖縄県では、1972(昭和47)年の本土復帰以降、作物の県外移出が許可された。琉球大学教授だった外間ゆきらによると、昭和50年代前半の県内では、ゴーヤーはキャベツや大根についで1000トンを超える入荷実績だったという。当然「沖縄のゴーヤーを内地へ」という農家たちの願いもあっただろう。

 だが、そこに立ちはだかったのが、害虫ウリミバエの存在だ。本土での蔓延を防ぐため、県からのゴーヤー出荷は、植物防疫法により禁止されたままとなっていた。そこで県は、生殖機能を持たない虫を大量に放って発生数を減らす方法などを駆使し、実験地の久米島についで沖縄全域でのウリミバエ根絶を目指した。放たれた不妊虫はミカンコミバエなどを含め、約530億匹ともいう。ついに取り組みから21年後の1993(平成5)年、県は「ウリミバエ根絶」を宣言した。晴れて沖縄産のゴーヤーの他県移入が解禁されたのだ。

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