沖縄から全国へ広まった苦瓜、なぜ「ゴーヤー」?

類まれなる“苦い作物”をめぐる歴史と科学(前篇)

2019.07.12(Fri)漆原 次郎
島津藩の農書『成形図説』における「苦瓜」。同書は島津重豪の命により曾槃(そうはん)らが編纂し、享和年間(1801-1804)から30年かけて刊行された。絵では、実が熟して黄みを帯びている。

 ゴーヤー、ニガウリ、ツルレイシ関連での国内最古の記述とされるのは、長崎学林が刊行した1603(慶長8)年刊の『日葡辞書』におけるもの。ポルトガル語で伝える対象になっていたようだ。

 その時代の記録としては他に、儒学者だった林羅山が編纂した1630(寛永7)年刊の薬物和漢辞典『多識編』に「苦瓜」の項目があり、同意語の当字に「豆畄礼伊志」、また異名として「錦茘枝(きんれいし)」ともある。ただし、『日葡辞書』『多識編』も言葉の意味を伝える辞書であって、記載当時の日本でこの植物が栽培されていたかは不明だ。

 一方、ゴーヤーの産地となった沖縄ではどうか。琉球王国の行政を司っていた中山王府が1713(正徳3)年に編纂した地誌『琉球国由来記』に「苦瓜」の記述が見られる。少なくとも当時までには琉球にこの植物が存在していたことは伺える。

東京でも戦前・戦後、栽培が進められるも・・・

 日本列島に伝来してから長らく、食用としてのゴーヤーはもっぱら沖縄で栽培し、食されてきた。南九州でも植物分類的には同じ種が栽培されたが、こちらは「ニガウリ」が訛って「ニガゴイ」(鹿児島)「ニガゴリ」(熊本)などとよばれてきた。系統も沖縄と南九州では異なる。沖縄のゴーヤーと本土のニガウリを別の作物とみなす人もいる。

 日本での他の地域、たとえば東京などの都市部の人びとは、この植物をどう捉えてきたのか。過去の新聞から都会人の「ゴーヤー・ニガウリ観」がうかがえる。

 1929(昭和4)年9月27日付の読売新聞朝刊には「印度人が珍重する『にが瓜』の料理 都會人は観て喜び…食べることを知らぬ」との見出しがある。記事には、東京では植木鉢に観賞用として作るぐらいで、菜(食用)としては「用ひて居りません」とある。ちなみにインドではフライパンにバターで煎りつけ、輪切りにしてソースで食べると伝えている。

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