米国大使館を占拠し外交官を人質に

 現在のイランの特殊性を理解するには、まず、イランと米国がなぜここまで相互を敵視し対決しているのかを知っておく必要がある。

 米国とイランとの決定的な敵対関係は、1979年11月、イランが首都テヘランの米国大使館を占拠し、米国人外交官ら52人を人質にとったときから始まった。

 この事件のきっかけとなったのは、イランのパーレビ国王の米国亡命だった。イランの近代化を進め、米国とは友好関係にあったパーレビ国王は、イスラム原理主義派の革命に追われエジプトに亡命し(1979年1月)、その後、末期がんの治療のため米国に渡った。イランの革命政権は米国がパーレビ国王の亡命を受け入れたことに抗議し、同国王の引き渡しを求めた。だが米国は当然ながらこの要求を拒んだ。時の米国の大統領は民主党リベラル派のジミー・カーター氏だったが、イランの要求に応じられるはずはない。するとイラン側は米側の外交官らを拘束して、人質にとり、米国政府への要求の材料としたのである。

 テヘランに拘束された米国側の人質たちは公開の場に引きずり出され、自国の政府の非難などを述べさせられた。エリートの米国外交官が後ろ手に縛られ、ときには目隠しまでされて、テレビカメラの前に立ち、苦痛をにじませながら、イラン側から命じられる言葉を口にしていた。こんな光景が全世界に伝えられた。米国人家庭のテレビでも連日連夜、放映されたのだった。

イランの米国大使館占拠事件で人質となった大使館員ら(出所:Wikipedia

 当時、毎日新聞の記者としてワシントンに駐在していた私は、文字通り連日連夜、米国人の人質たちの惨状をテレビで見ることになった。その映像に対する一般米国民たちの怒りや当惑の反応も、いやというほど目撃した。