(児美川 孝一郎:教育学者、法政大学キャリアデザイン学部教授)
前回の記事(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56308)では、1991年の大学設置基準の「大綱化」によって、全国の大学が雪崩を打って教養部の解体や一般教育の縮小・再編へと向かうまでのプロセスを見た。
ただし、そこで強調したのは、当時の大学審議会は、一般教育の「解体」を企図して大学設置基準の緩和を図ったわけでは必ずしもなかったという事実である。
大学審議会自体は、戦後の大学において一般教育が抱えていた問題点や課題を十分に認識しつつも、なお各大学の創意工夫と努力によって、一般教育の理念・目標が再認識され、それが大学教育の不可欠な一環として「再構築」されていくことを期待していた。規制緩和を図りながらも、一方でそうした期待をかけるのは、ご都合主義にも見えなくはないが、そこは「大学人の見識」に賭けたのである。
しかし、そうした期待は、見事に裏切られたと言わざるを得ない。なぜ、そうなったのか。今回は、この点を考えてみたい。
規制緩和という改革手法の問題
まずもって指摘すべきは、大学設置基準の「大綱化」(規制緩和)という改革手法の問題であろう。
大学審議会を含めて、当時の高等教育政策は、確かに期待や願望のレベルでは、日本の大学における一般教育の再興を目指していたかもしれない。しかし、それが実際に施行したのは、「一般教育科目」「専門科目」などの科目区分とそれぞれの区分ごとの必要単位数の設定を撤廃し、各大学が自由に教育課程を組むことができるようにするという「弾力化」の措置であった。