その様子を見て、鉄道を守り、動かすという鉄道人の気持ち、いわば「鉄道魂」がそこにしっかり残っているのだと感激しました。鉄道魂はまだ決して捨てられたものではないという思いを新たにするできごとでした。

「国鉄最後の日」の翌日に

 1987年3月31日、「国鉄最後の日」はやってきました。その日の朝、杉浦総裁から訓示があったあと、お世話になった関係各所へあいさつをして回り、夕方に、いまはなき丸の内の旧国鉄本社ビルで「日本国有鉄道」の銘板(現在はさいたま市の鉄道博物館にて展示)を総裁が取り外すセレモニーに参加したあと、すぐ本社内に戻って最後の打ち合わせをしました。

 というのも、苦しかった国鉄を支えてくださった乗客に報いるべく、31日当日かぎり有効、10万枚限定の国鉄全線(新幹線、特急の自由席も含む)に6000円で乗り放題という破格の「謝恩フリーきっぷ」を発売したところ大好評を得て、発売を開始した当日の午前中に完売するという人気になっていたからです。

 とくに新幹線の乗客が多く、このままだと国鉄最後の日の終列車間際に、各駅で積み残しが出てしまうのではないかという懸念が急浮上していました。そこで数日前からたびたび会議を開き、利用者の方にできるだけ早い時間の利用をお願いするとともに、時刻表にない(事前に公示していない)臨時列車を用意し、乗客の動きに応じて臨機応変に運転できるよう準備していました。

 そんななか、夕方に名古屋付近で停電事故が起こり、1時間ほど運転を見合わせるという事態がありました。肝を冷やしたものの、臨時列車の活用も功を奏し、どうにか無事に最終日の営業を終えられる見通しとなりました。

 夜遅く、私もまたひとりの乗客となり、超満員のため東京駅を遅れて出発した「ひかり」自由席デッキの片隅に立ちました。国鉄に入社して33年、国有鉄道としては開業以来117年の月日を刻んできた歴史が終わる日を迎え、新たな仕事への期待と不安、そして憧れて入社した国鉄を、このようなかたちで見送ることになったことに対するわびしさと、自責の念が入り交じった、なんとも表現しようのない、かつて経験したことのない複雑な感情を抱きながら、名古屋へと向かいました。

 そして私は翌日、JR東海の社長に就任したのです。