若すぎる信康の死

 それから5年後の永禄10年(1567)、信康は、織田信長の長女徳姫と結婚することになった。もっとも、このときは二人ともまだ9歳であり、形式的な結婚として、徳姫を岡崎城に迎えている。いうまでもなく、これは、織田氏と徳川氏との同盟を強化するための典型的な政略結婚であった。

 永禄11年(1568)、武田信玄の駿河侵攻に合わせて遠江に侵入した家康は、三河の岡崎城から遠江の浜松城に居城を移す。このあと、岡崎城は信康が守ることとなり、石川数正が信康を補佐することとなった。家康の正室の築山殿も、岡崎城で信康と暮らすことになっているが、すでにこの時点で、家康との関係は冷え切っていたのかもしれない。

 さて、信康はといえば、天正元年(1573)の三河足助城攻めを足がかりに、天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦い、天正5年(1577)の遠江横須賀の戦い、天正6年(1578)の遠江小山城攻めなどに活躍している。いずれも、武田勝頼との戦いであり、信康はこうした合戦でも功をたて、将来を嘱望される青年武将に育っていた。そのままなにごともおこらなければ、徳川氏の家督は、この信康が継いでいたであろう。

 しかし、天正7年(1579)7月、突如として信康に謀反の疑いがかけられてしまう。

 家康の家臣・大久保彦左衛門の『三河物語』によると、徳姫が父信長に宛てて、信康が武田氏に内通しているなど12か条の弾劾状を送ったことから、信長が家康の家臣・酒井忠次に問い詰めたという。そして、この酒井忠次が10か条については否定しなかったことから自害を命じたとしている。

 結局、家康は8月29日、築山殿を二俣城に護送する途中の佐鳴湖畔で殺害させ、9月15日には、信康を幽閉していた二俣城で自害させた。信康の享年は21。

 家康は信長の圧力に屈して妻子を死に追いやったと考えられてきたのはこのためである。

浜松市中区西来院の築山殿廟所

 『三河物語』の記述が事実だとすると、酒井忠次が弁明できなかったため、信康は自害に追い込まれたことになる。後年、忠次が嫡男家次に加増を願い出たさい、家康が「お前でも我が子はかわいいか」とつぶやいたというエピソードがあるが、これは、『三河物語』の話を下敷きに創作された話であろう。