武田勝頼と内通していたのか
家康の関東入国後、家次には下総臼井3万石が与えられたが、徳川四天王のほかの3人が10万石前後を得ていたのに比べれば、確かに低い。しかし、能力に応じて所領を配分していたのだとすれば、あながち低いともいえないのではなかろうか。なにより、信康自害後も、家康は酒井忠次を重用しているのである。
江戸時代初期に成立した『当代記』には、家康は信康の行状について酒井忠次から信長に報告させたところ、信長からは「家康存分次第の由」と返答があったと記されている。
私的な面からすれば信康は信長の婿であり、公的な面からすると織田・徳川の同盟を結びつける要人でもあったから、家康が報告するのも当然である。また、信長は「家康存分次第の由」、つまり家康が決めることだと返答しているのだから、至極まっとうな対応をしていたことがわかる。
そのようなわけで、近年では、浜松城にいる家康の家臣と、岡崎城にいる信康の家臣との間に対立が生じていたことが原因で、家康が自ら信康に自害を命じたとする説が浮上している。
信康に自害を命じたのが信長ではなく、家康の判断だというのは、おそらく事実であろう。執念深い家康のことだから、仮に徳姫が信康を陥れたのであれば、徳姫を許さなかったに違いない。しかし、晩年の徳姫は、家康の四男松平忠吉の庇護を受けており、家康から冷遇されたという形跡はない。家康が信康に自害を命じたとすると、家康の評価を下げることになるため、信長の命令に従ったという形にしてしまったと考えるのが自然である。
では、信康と築山殿が武田勝頼に内通していたというのは、果たして事実なのであろうか。
『松平記』には、築山殿は「公に恨ありて、甲州敵の方より密に使を越、御内通あり」と書かれており、家康に恨みがあったので武田氏に通じたとしている。桶狭間の戦い後、家康が信長についたことで、築山殿の両親は氏真によって自害に追い込まれたという。そもそも、実家の関口氏は今川氏の姻族であり、家康に恨みを抱いていたのは確かだろう。子の信康に家督を継がせ、武田勝頼とともに信長を討つことを考えていてもおかしくはない。
とはいえ、天正3年の長篠・設楽原の戦いで敗れた武田勝頼の勢威は著しく衰えており、現在では、武田勝頼に内通する理由はないとの見方が一般的である。ただ、武田勝頼が苦境に陥っているのは、信長と家康に圧迫されているためであり、信康が勝頼に味方をすれば、それもどうなるかわからない。武田勝頼が亡んだ(ほろんだ)のは結果論であって、信康と築山殿に武田勝頼と結ぶ考えがあったとしても、おかしくはないのではないだろうか。
もちろん、信康と築山殿が武田氏に内通していたかどうかは、今となっては確かめようもない。
ただ、たんなる父子の対立あるいは家臣団の対立に信康が関わっているとしたら、家康は信康を廃嫡にすればよいだけである。武田氏への内通が「根も葉もない噂ではない」と考えたからこそ、自害を命じたのではないだろうか。