アングロ・サクソン系の人々は、島の南部から中央部にかけての広い地域を支配します。この地域は、「アングル人の土地」という意味から「イングランド」と呼ばれるようになります。このイングランドのアングロ・サクソン系の人々はいくつかの国を作るのですが、それが次第に7つの王国に集約。この時代のイングランドを「七王国時代」と呼びます。

 七王国が覇権を争う時代は、最終的にはウェセックス王国によるイングランド統一という形で終わりを迎えます。こうして「イングランド王国」が誕生しました。

 ただ七王国時代のイングランドも、やはり外敵の襲来に悩まされ続けていました。現在のデンマークに住む北方ゲルマン系の「デーン人」がたびたび侵入してきたのです。

ヴァイキング「デーン人」の侵攻

「ヴァイキング」とも呼ばれるデーン人は、イングランドをかなり侵食していたのですが、ウェセックスは彼らを撃退することでイングランドの統一を実現したわけです。強大な国が誕生したはずでしたが、現在のように王位継承順位がきちんと定められていない時代には、王位継承を巡る混乱が国の存続を脅かします。イングランドも例外ではありませんでした。王位継承をめぐるゴタゴタが起きているときに、再びデーン人が来襲してきたのです。このときイングランド王の座にあったのが「無思慮王」と呼ばれたエゼルレッド2世でした。

 この無思慮王は、イングランドに住むデーン人を皆殺しにする命令を下し、実際にデーン人が虐殺される事件が起きました。これに怒ったのがデンマーク王です。ここからデーン人のさらなる攻撃を呼び込んでしまうのです。その結果、無思慮王は、海を渡り、妻の実家があるフランスのノルマンディー公国に亡命してしまいます。王を失ったイングランドの貴族たちは、1013年、デンマーク王のスヴェンをイングランド王に迎え入れました。

 ところがこのスヴェンは、その翌年には亡くなってしまいました。そこで、デンマーク王にはスヴェンの長男のハーラル2世が即位、イングランド王には次男のカヌートが推戴されたのですが、この隙にあの無思慮王がノルマンディーから帰還して王位奪還してしまうのです。それに対してカヌートは大軍を率いてイングランドに上陸。再び王位を巡る戦いが始まりますが、無思慮王エゼルレッドは病死。その後を継いだ息子もカヌートとの戦いに敗れた後、急死してしまいます。

 戦いに勝ったカヌートは、1016年、イングランドの「賢人会議」からイングランドの王として認められます。こうしてイングランドにデーン朝が誕生しました。これはイングランドが「征服された」というよりも、無能な王に代わって「他国の有能な王を迎え入れた」と解釈する方が事実に即しているようです。

 実際カヌートは、無思慮王の未亡人で、ノルマンディー公の娘であるエマと結婚。また従来のイングランドの方や慣習に従って統治するという方法を取り、貴族とも強調する路線を取りました。

 イングランドのアングロ・サクソン系の人たちと良好な関係を築くことに心を砕いたカヌートでしたが、彼がイングランド王となった2年後、兄のハーラル2世が死去。カヌートがデンマーク王位を兼任することになります。カヌートは、デーン朝イングランドとデンマーク、さらにノルウェーとスウェーデンの一部という、北海を囲む広大な領土を支配することになります。このカヌートの帝国を「北海帝国」と呼びます。イングランドは、これら北欧の国々と同じ王を戴く国となったのです。

【地図2】北海帝国 ©アクアスピリット

 広大な領土を誇った北海帝国ですが、カヌートが亡くなると間もなく瓦解してしまいます。北海帝国はカヌートの個人的能力でまとめ上げられていたにすぎませんでした。

 ここまで見てきたように、外界に対するイギリスの態度は、かなりパッシヴなものでした。そもそも、イギリスはヨーロッパの辺境に位置する比較的弱体な国家に過ぎなかったので、仕方なかったことだと思われます。