失態続きの「欠地王」ジョン
リチャード1世の継承者としてイングランド王となったのは、弟のジョン王(1199〜1216年)です。ジョン王は「欠地王」と呼ばれていましたが、これは父・ヘンリー2世が早々に息子たちに相続させる領地を決めていたため、末っ子のジョンには「もう相続すべき土地はない」と言われてしまっていたためでした。
日本語の文献の中には、「欠地王」を“誤訳”して「失地王」としているものもありますが、失政続きだったジョン王は、実態的には「失地王」と呼ばれても仕方のない王でした。しかし、逆に言えば、だからこそイギリスはその後の近代国家としての土台をいち早く築けた、と言うことも可能かもしれません。結果論ですが、ジョン王なくしてその後のイギリスの繁栄はなかったかも知れないのです。
フランスのフィリップ2世は、アンジュー帝国の領土であったノルマンディー、アンジューなどに侵攻します。これらの地域の領主層の中にはフランス王に忠誠を誓っていた者も多かったので、ジョン王に従っていた城は次々と陥落してしまい、1214年には、ジョン王はフランスの領土のほとんどを失い、残されたのはボルドーを中心とするアキテーヌ地方だけになりました。
ジョン王の失態はさらに続きます。ジョン王は、ローマ教皇庁を支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年にローマ教皇インノケンティウス3世はイングランドを聖務停止とし、1209年にジョンを破門したのです。
大陸側領土の回復を狙ったジョン王は、神聖ローマ皇帝、フランドル伯、ブローニュ伯と結んで、フランス王フィリップ2世に攻撃を仕掛けます。けれども、ブーヴィーヌの戦いでフランス側の勝利に終わり、フランスの優位は決定的なものになってしまいました。
ジョン王は何度も大陸領土の回復のための戦争をしたため巨額の戦費がかかりました。その調達のために、彼は諸侯の同意なく、彼らへの課税を強行しました。もちろん諸侯はジョン王に反発。そこで諸侯たちがジョン王に突き付けたのが「大憲章(マグナ=カルタ)」です。
大憲章は、前文と63条からなり、国王の徴税権の制限、法による支配などを明文化して、王権を制限、封建貴族の特権を再確認したものでした。これがその後のイギリス立憲制の支柱となってゆきます。皮肉なもので、ジョンが無能な王だったが故に、イギリスの立憲制が発展することになるのです。
また、ジョンの治世に、イングランドは多くの海外領土を喪失しました。最終的には、1338〜1453年に英仏間で戦われた百年戦争により、イングランドは残っていた海外の領土の大半を失い、文字通りの島国となってしまいます。
しかしこれも後代のイギリスにはプラスに作用しました。というのも、その後の戦争はすべてヨーロッパ大陸で行われたので、イングランドの国土が傷つけられることはありませんでした。イギリスは島国であったためにヨーロッパ大陸の抗争にあまり巻き込まれずに済んだというわけです。そのようなことは、これ以降も続き、ヨーロッパ大陸の戦乱に巻き込まれずに済んだのです。
立憲制を発達させ、無傷だった国土で富を蓄えていく。やがてイギリスがヨーロッパでもっとも豊かな国になる準備はこのころに出来ていたのです。
イギリスは島国で「ある」のではなく、島国に「なった」のです。