私はへええ、と驚いた。そして、記憶に刻み込まれた。というのも、それからしばらくして小泉政権がスタートし、「トップダウン」という言葉が流行すると、優秀な人間が「既得権益」を守ろうとする暗愚な凡人たちを怒鳴り散らし、「俺がいなけりゃ回らない」というリーダーシップ(?)を振るう人が日本に増えていったからだ。もしかしたら、今世紀に入って以降は、中国人が日本人化(自分でなくてもシステムが回るようにする)し、日本人が中国人化(自分がいないとシステムが回らないようにする)していった歴史だったのかもしれない。

 その証拠に、「『指示待ち人間』はなぜ生まれるのか?」という文章をTogetterにアップする直前、指示待ち人間の多さを嘆く上司やリーダーが世にあふれていたからだ。「指示されるまでボーっと突っ立ってるんだよ? 信じられる?」「ちょっとは自分の頭で考えて動いてほしいよ」「なんでこんなことくらい、分からないのかねえ」「所詮、自分の頭で考えられる人間なんて、ほんの一握りなんだよ」と、部下が指示待ち人間ばかりなのを嘆くリーダーや上司たちの飲み会が花盛りだった。

日本人が捨ててしまった「力」

 阪神大震災が起きて、もうじき24年が経つ。週末ボランティアでしかしなかった私だが、それでも私は激しく衝撃を受け、間違いなく人生の転機になった。いろんなことを学ばせてもらった。

 リーダーとは? 「優秀」とは何か? 人は本当に利己的なのか? 誰かを喜ばせたいって、本能的なものじゃないか? 誰か笑顔になるなら、寝食を忘れて働いてしまうことがあるんじゃないか?

 当時の私は、バブル経済の価値観に犯され、所詮人間なんて利己的で、貪欲で、金以外の理由で働こうとはせず、できるだけサボろうとし、手を抜こうとする、怠け者で働きたくない生き物なのだ、と考えていた。誰かを出し抜こうとズルいことを考え、自分の利益だけを考える生き物なのだ、という思いに毒されかけていた。それがガラリと変わったのが、阪神大震災だった。

 あるボランティアがこんなことを言った。「俺、今この瞬間に死ねたら無茶苦茶カッコイイ」。真意はこうだ。被災地にたどり着くまでの車内で、「俺なんかが被災地に行っても役に立ちやしない、邪魔になるだけ、俺は善人アピールをしたくて行くだけなんじゃないか、なんて俺は薄汚い人間なんだ」と、自問自答しながら来たのだという。

 到着して惨状を目にした途端。すべてが吹き飛び、「何か自分にできることはないか?!」と必死に駆けずり回り、1週間ほどたってようやく、我を忘れて誰かのために必死になって活動していた自分に気がついたのだという。誰かによく思われたい、よく見られたいという感情も吹き飛んで、誰かのために必死になっていた自分を発見して、自分のことをようやく許し、認めることができたのだという。