ただ、彼ひとりが辣腕を振るう中で、周囲が皆「指示待ち人間」になったのも確かだった。仕分け作業するにも、彼に種類と数量を報告しなければならなかった。物資の所在も、彼しか知らなかった。すべての情報は彼が把握し、彼からの指示を仰ぐしかなかった。だから、みんな「指示待ち人間」にならざるを得なかった。

 後任の若者は、やり方をガラリと変えた。少し場所をとるが、救援物資を種類ごとに「島」に分けたことで、誰でも一目で物資の種類と量を把握することができた。

 だから物資調達役のボランティアは、低い島の物資を調達してくればよかった。物資を仕分けする担当者も、「島」を眺めて、似ている物資の島に置けばよいだけ。自立的、自主的にボランティアたちが活動できるようになった。指示を待つ必要もなく、皆、自分の頭で考えて動くようになったのだ

 この経験は、私にとって衝撃だった。

 学力という意味では「歩くコンピューター」の方がはるかに上だったろう。記憶力、論理能力、計算能力、そうした「お勉強」の力は、誰よりも卓抜していた。しかし、特別な能力がなくても皆が自立的に判断することができ、自主的に活動し、集団がトータルとして活性化したのは、建設業の若者の提案したシステムの方だった。

 個人の能力が優れているよりも、システムとして優れていることの方が大事なのかも。ひとりの能力が輝く一方で他の人たちが指示待ちになってしまう仕組みより、誰もが自主的自立的に能力を発揮する仕組みの方が優れているのかも。そう痛感させられた経験だった。

日本人化する中国人と、中国人化する日本人

 2001年、私は中国に渡った。中国が現在のように発達し巨大な経済力を示すようになるとは、大半の日本人はまだ信じていなかった。中国の人も、当時、日本人に敬意を抱いていた。その旅先で、興味深いことを聞いた。

「中国人は会社に勤めると、自分の功績を大きく見せるため、『自分がいないと仕事が回らなくなる』ようにしてしまう。そのせいで、その人がいなくなると、どうしたらよいのかさっぱり分からず、大混乱する。その点、日本人は、自分が異動しても問題なく仕事が回るように引き継ぐ。自分にしかできない仕事にするのではなく、誰が取り組んでもそれなりの結果が出る仕組みに変えていく。これを中国人も見習うべきだ」