ところが他の学生まで私の話を聞きたがらなくなった。ということは、学生が問題なのではない。私の話しぶりに何か変化があったのだ。何だろう? と、自分自身の話しぶりを振り返ってみた。

 話の内容は大きく変わっていない。研究の新しいアイデアや、自分の若い頃の苦労話とか。話の内容は似ているのに、学生の反応が全然違う。何だろう? とずっと考えていると、自分の心構えがひとつ、大きく変化していることに気がついた。「自分が面白い、話したいと思ったことしかしゃべらなくなっている」。

 私はもともと、話術に自信がなかった。話を聞くのは好きだが、上手に話す自信が長らく持てなかった。そのためだろう、若い人に話すときは、「この若者は、こんなことで悩んでいるのではないだろうか」と、相手の関心事がどこにあるのか探りながら話をしていた。相手の聞きたそうな、ヒントがほしいと思っていそうな話題を探り探り、話をしていた。

 すると、若い人は、身を乗り出して聞いた。ズバリ自分の悩んでいることでなくても、「そういえば友人がそれで悩んでいたけど、どうアドバイスしたらよいか分からなかった件だ」と感じると、ヒントを得ようと身を乗り出す。あるいは、自分の悩みとはズレていても、話の中からヒントを探り出し、「自分のケースならどうすればよいだろう?」と深く考え出す。

 私は、若い人の反応が変わったのを見て、「この話題に関心がありそうだな。じゃあ、ここをもう少し深掘りして話してみよう」としてみた。すると、若い人はますます身を乗り出した。つまり、若い人が聞きたがっていることを探りながら話をすると、若い人は「これは自分と深く関係する話だ!」と思って、身を乗り出すのだ。

 ところが、若い人が話をあんまり聞いてくれるようになったものだから、私は図に乗ってしまった。すると途端に若い人たちの心が離れた。「そうですか、よかったですね。もうそろそろ終わりにしてもらっていいですか」。若い人たちの心に寄り添おうとせず、自己満足のためだけに話をすると、若い人は「そんなのにお付き合いする時間がもったいない」と、逃げてしまうのだ。

 話術に自信がないときには、若い人の悩みに寄り添おうとしていたのに、若い人が自分の話を聞くのが当たり前、と思い込み、傲慢になった途端、自分の話したいことを話すようになってしまった。すると、自慢話ばかりになってしまった。これが、若い人を遠ざけていた原因だと気がついた。