筆者が「築論」の見本として興味深く拝聴している番組が、Eテレの「ニッポンのジレンマ」だ。初回、それこそ揚げ足取りの罵りあいになりそうな気配になったとき、司会が「田原さんの番組みたいになっちゃう」と冷水を浴びせた。そこからこの番組での議論は「築論」的になった。異論を否定するのではなく、異論を新しい視点の提供と捉え、さらに議論をバージョンアップさせる姿勢が定着した。

 築論では、なるべく新しい視点、異論が提出されることを喜ぶ。それは、参加者全員が「気づいていなかった」「意識していなかった」ことに気がつき、新しい学びが発生することを嬉しく思えるからだ。こうした学びの発生が、日本で根付いた討論にはとても発生しづらい。討論では、参加者がみんな「バカの壁」を築き、「自分以外はバカ」だとみなし、そう思い込むことで学習する機会を失い、自らますます愚かになる、という悪循環が発生しやすい。

 筆者は、「朝まで生テレビ!」も「2ちゃんねる」の討論も、討論の問題点、課題を浮き彫りにするという点で、意味のある体験だったと考えている。ただ、そろそろバージョンアップしてもよいのではないか、と考える。自分の思考の正しさばかり主張し、学ばない姿勢からは、いわゆる夜郎自大*1の誇大妄想しか生まれない。

 大きな声と攻撃的な姿勢で相手を黙らせようという討論のテクニックは、日本ではずいぶん根付いてしまっているようだが、そういう悪習については別稿の「納得!会議で『声の大きい人』に押し切られない方法」*2をお読みいただきたい。大きな声の人をはびこらせていては、築論はできず、衆知を集めることもできなくなる。

 自分にない発想、着想を面白がり、互いに学びあう「築論」が日本の次の流行となるように願っている。

*1:小さな国の王が、自分の国を巨大なものと思い込んでいた故事。
*2http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50190