そこで武帝は、匈奴との対決を考えます。前139年、西方の大月氏国に「匈奴挟撃」の同盟を結ぶため、張騫(ちょうけん)を派遣しました。

10年の拘留生活から決死の脱出

 使節団を率いて大月氏国へ向かった張騫でしたが、途中で匈奴に捕らえられ10年近く拘留されてしまいます。その後、何とか脱出に成功した張騫は、大月氏国にたどり着くことに成功しましたが、張騫の申し入れは聞き入れられませんでした。

 ただ、張騫の旅は無駄ではありませんでした。彼は帰国後、大月氏や大宛、烏孫などの状況や地理について詳細に報告します。その情報を元に、武帝は本格的な西域経営に乗り出します。前129年以降、衛青、霍去病(かくきょへい)の2人の将軍を登用して匈奴を圧迫することに成功、西域に進出することになりました。

【地図2】前漢の最大版図 ©アクアスピリット
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 武帝は西域に敦煌をはじめとする四郡を設置し、支配領域を西に広げていきます。さらに南にはベトナムの南越を滅ぼして日南郡を置き、東へは朝鮮に侵出して楽浪郡以下の四郡を置いて直轄領としました。

 このように武帝時代には、その版図を中華以外の世界に拡大していったのです。これらの地域は、言うなれば中国の単一市場に取り込まれたわけです。始皇帝時代に出現した単一市場をはるかに上回る規模のものでした。

 もちろん、現代の単一市場ほどの凝集性はありませんが、緩やかにつながれた1つの市場と見るべきでしょう。

積極的外征が招いた財政危機

 一方で、武帝の対外政策によって、漢は窮地に立たされてしまいました。あまりに積極的な対外政策の連続で、巨額の資金が費消され、国庫が空っぽになってしまったのです。

 武帝は、財政再建を図る必要に迫られました。そこで登用したのが経済官僚・桑弘羊(そうくよう・前152〜前80年)です。

 桑弘羊の助言を受けた武帝は、それまで帝室財政の収入源となっていた塩鉄税収を、国家財政に移管しました。

 鉄と塩は、中国においてもっとも重要な産業でしたが、塩の生産地は山西省や四川省の一部に限られており、地元の製塩業者とその販売業者が巨額の富を得ていました。鉄製農具についても、製鉄業者とその販売業者の独占状態にあり、彼らが莫大な利益を得ていたのです。

 この塩と鉄の商売には課税されていましたが、その税は帝室に収められ、国家財政には寄与していなかったのです。桑弘羊はこれを改め、さらにその後、塩と鉄を国家による専売制にして莫大な収入を得ていくのでした。