また桑弘羊は、均輸法・平準法を実施しました。

 均輸法とは、地方に置いた均輸官という役人が、その地方で余っている商品の購入と中央への輸出を担当し、中央はその商品が不足している地方に売るという法律です。

 平準法とは、物価が低下したときには国家が商品の買い付けをすることで物価を引き上げ、逆に物価が上昇したときに国家が買い付けていた商品を売って物価を引き下げるという法律です。地方での商品の買い付けを担当するのは均輸官、都である長安でその商品の保管・売り出しを担当するのは平準官と呼ばれる役人でした。

 どちらも「物価の安定」が建前になっていますが、その裏には、直接商売に介入し、収益を上げ、財政を立て直したい、という国家の意図がありました。一方、商人にとっては自分たちの商売を圧迫この政策に、強い不満を持つようになりました。

 学者からも「民業圧迫」の強い批判が桑弘洋に対してなされましたが、この経済官僚は持論を曲げず、自ら提言した経済政策を貫くのでした。

 さらに武帝は、商工業者にかける財産税を重くして税収を増やし、さらに諸侯国に認めていた貨幣鋳造を禁止し、中央官庁が発行する「五銖銭」だけを通貨とすることで通貨制度を安定させたのでした。しかも五銖銭は、唐代初頭まで使用されます。このように同じ通貨が長く使われるということは、中国経済の安定につながりました。

 こうした政策の結果、商人たちの財布の中身は寂しくなったかもしれませんが、国家の財政は一気に豊かになったのです。

先進的な政策で成し遂げた財政再建

 武帝と桑弘羊のコンビが断行した財政改革と経済政策は、非常に先進的な施策でした。

 この政策により、首都・長安の倉庫には穀物が満ち溢れ、都に集められた絹布も500万匹に達したと言われています。政策は大成功を収めたのでした。

 武帝の財政改革は、単に財政赤字を解消することだけにとどまらず、国家が経済に介入し、経済成長を促すというシステムだったと言えるでしょう。これを始めたのは秦の始皇帝でしたが、武帝の時代により洗練され、完成したシステムに高められたのでした。

 財政危機に陥った原因は、積極的な外征にあったと言われていますが、そもそも広大な帝国の維持には膨大な経費が必要です。問題は、「その費用を誰が負担するか」ということです。

 一連の政策で、武帝は一般民衆にかかっていた負担を、特権的大商人に転嫁することに成功したと言えるでしょう。塩・鉄の専売は大商人のドル箱事業を国家が奪ったわけですし、均輸法と平準法も商人が掌握している物流・販売事業の一部を国家が代わりに行うようになったわけですから。

 しかもこれらは、単なる経済政策にとどまらず、積極的な「国営事業」運営の前例となりました。現代でも、目的は様々でしょうが多くの国でさまざまな形の国営事業が展開されています。問題は、それが成功するかどうか、です。歴史を振り返れば、大失敗した国営事業には枚挙がありません。武帝の国営事業はどうだったか。私は成功だったと評価してよいと考えています。

 ただ、武帝と桑弘羊の財政政策には、少しだけ欠落している視点がありました。

 それは国債を発行しなかったことです。

 戦争などで増大する国家支出を賄うため、国債を発行して資金を集め、それを長期で返済する仕組みを作ったならば、財政運営ははるかに楽になったはずです。そして、これこそが近代的な財政システムの要になっています。

 ですが、さすがの桑弘羊もそこまでは考えつきませんでした。このような財政システムを最も効率的に構築したのは、18世紀のイギリスでした。イギリスはそのためにフランスとの戦争を勝ち抜き、ヘゲモニー国家になったのです。もしも桑弘洋が国債の仕組みを発明していたならば、中国はさらなる経済発展を遂げていたかもしれません。