万里の長城は匈奴などの異民族の攻撃に備えるために築かれた

 前221年に中国を統一した秦でしたが、その政策があまりに急進的かつ過酷であったために、始皇帝が没するやいなや、各地で反乱が相次ぎ、前206年に滅亡します。

 秦代の歴史については、新たな竹簡が発見され、次々と新事実が判明してきていますので、今後大きく書き換えられる可能性もあります。ただ、始皇帝が目指した中央集権化の志向性は、少なくとも宋代に至る歴代王朝でも維持されていた、という現在の評価は今後も変わらないのではないでしょうか。

 経済が成長するために国家の役割はきわめて重要です。前回の記事(「中国文明を経済成長路線へ乗せた始皇帝の『剛腕』」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54030)で述べたように、始皇帝は文字の統一だけではなく、大土木工事を実施し、道路や運河の整備を行いました。これにより輸送コストが大きく低下したはずです。

 道路や運河などのインフラ整備は、経済成長のために欠くことのできないものです。中国ではまず秦が本格的なインフラ整備に乗り出しましたが、その発想は後に続く漢にもバトンタッチされたのでした。前回解説したように、青銅器や鉄器の普及でメソポタミアに遅れていた中国は、始皇帝の類まれなるリーダーシップで経済発展を遂げ、さらに漢の時代にその地歩を確かなものとするのでした。

中央集権体制を敷けなかった劉邦

 前210年に始皇帝が没すると、秦による治世は急激に不安定化してきました。そこに陳勝と呉広が起こした反乱(「陳勝・呉広の乱」)をきっかけに、秦朝に対する農民たちの反乱が全国的規模へと拡大していきます。

 この騒乱の中、陳勝と呉広は討ち死にしますが、秦朝に対する戦争は楚の項梁に引き継がれます。その項梁も秦を滅ぼす前に敗死すると、その配下で活躍していた、項梁の甥で軍人出身の項羽、農民出身の劉邦の2人が頭角を現してきます。

 最終的に秦を滅ぼしたのは項羽でしたが、その後の覇権を巡り、劉邦と対立します。

 その対立で優勢だったのは項羽でしたが、最後に勝利したのは劉邦でした。劉邦は前202年の垓下の戦いで項羽を打ち破り、中国の統一に成功したのでした。