しかし、その14年後の1488年、今度は自らが本願寺に追い詰められることとなります。

 加賀の支配を確立させた政親でしたが、次第に本願寺一派の強大な力を恐れるようになり、弾圧を加え始めます。また、政親の支配手法に対し、加賀の国人(その領内の住民たち)勢力も反発し、本願寺門徒と国人が結びついて一向一揆を起こします。政親は高尾城に追い詰められ、自害することとなりました(加賀一向一揆「長享の乱」)。

 国人らは、政親の後継として政親の大叔父に当たる富樫泰高を傀儡の守護に立てます。しかし京都の幕府は、自らが任命した守護を国人らが自害に追い込んだことに激怒し、既に加賀を離れていた蓮如を呼びつけ、加賀の信徒を破門するように迫りました。しかし蓮如は、「既に加賀の地を離れており、本願寺が一揆を扇動したわけではない」と弁明し、また幕閣の細川政元の弁護もあって、加賀の信徒に「御叱り状」を出すことで落着させています。

 東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、浄土真宗高田派との抗争を兼ねていた1474年の富樫家のお家騒動の際とは違い、長享の乱では蓮如が積極的に一揆を扇動した痕跡はないようです。とはいえ、加賀の支配権を握る国人指導者への本願寺の影響力が高かったことは間違いありません。加賀一向一揆は、守護に反乱を起こした国人勢力が本願寺宗徒であったと見るのが実態に近いようです。その後の幕府との関わりの中で、本願寺は次第に加賀の支配権を確立させていきます。

 次回は、本願寺派勢力が実質的に戦国大名となり、信長と抗争を繰り広げていく様子を見ていきます。

(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行