蓮如は、子供が男子の場合は主に他の寺院へ養子として送り、成人した暁にはその寺院を本願寺系列の末寺として組み込んでいきました。一方、女子の場合は主に幕閣関係者と縁組し、これにより室町幕府内で本願寺支援者を急拡大させ、幕府の権威を得つつその支援を生かして勢力拡大に努めました。

延暦寺の弾圧を受け加賀へ

 こうして衰退していた本願寺を一挙に拡大させることに成功させた蓮如でしたが、急な勢力拡大を疎ましく思ったのが比叡山延暦寺でした。

 本願寺の勢力拡大ぶりに危機感を持った延暦寺は1465年、蓮如と本願寺一派を「仏敵」と認定し、僧兵を繰り出して現在の京都市東山区付近にあった大谷本願寺を破却するなど弾圧を加え、蓮如らは近江へ一時避難する羽目となりました。

 その後、延暦寺と本願寺は和睦を行い、和睦の条件として蓮如は法主の座を降りることになります。法主を引き継いだのは、まだ幼少であった五男の実如です(長男の順如は、幕府内に多くの人脈を持っていたことを警戒され、後を継げませんでした)。

 ただ、蓮如はこの引退を機に、新たな布教地を目指して京都から加賀(現石川県)へと遷(うつ)り、この地で信徒を拡大させることとなります。この延暦寺による弾圧がなければ蓮如は加賀には向かわず、加賀がその後「百姓の持ちたる国」と呼ばれることはなかったかもしれません。

守護大名を自害させた「加賀一向一揆」

 加賀でも順調に信徒を拡大させていた蓮如たちでしたが、加賀の守護大名である富樫家のお家騒動に巻き込まれることとなります。

 富樫家のお家騒動には、1467年に発生した「応仁の乱」が大きく影響していました。京都の東軍を支持する兄の富樫政親と、西軍を支持する弟の富樫幸千代の間で、加賀の支配を巡って1474年に抗争が勃発したのです。その際、政親は本願寺に支援を求めます、蓮如は、対立していた浄土真宗高田派が幸千代側についていたことから、支援の要請を快諾します。本願寺の支援もあり、政親は幸千代を敗死せしめ、加賀の実権を握ります。