「初めは経営までするつもりはなかったんです。筆頭株主になって顧問の肩書をもらいました。株主ヅラして経営にケチを付けてやろうかな、と(笑)。『とりあえずシステムがどうしようもない』ということだったので、それなら僕でも手伝えるかなと思って会社に行ってみたんです。

 そうしたら、確かにシステムもひどいんだけど、それ以上に人間がなっていなかった。幹部会議を2時から始めますと言っているのに、全員が揃うのは4時くらい。12時にランチに出かけた社員が戻ってくるのが3時だったり。

 残業手当が付かないはずの管理職で1人だけ残業手当をもらっている者がいたので、その上司に聞いてみたら『彼は残業手当をくれなかったら辞めると言っている。辞められたら困るので払っている』とのことでした。

 これでよく飛行機が飛んでいるなと思いましたね。自分も、金をドブに捨ててしまったなと」

全資産をスカイマークに

 社内には「どうせこの会社はもう立ち行かない」という厭戦ムードが蔓延していた。創業者の澤田も、業績回復を諦め、一刻も早くスカイマークから手を引きたいと考えているように西久保には見えた。

 西久保は会社に役員の入れ替えを進言した。それに対する返答は「だったら西久保さんが社長をやってくれ」というものだった。

「業界のことについて右も左も分らんのだからそれは無理だと断ったんですが、1週間くらいたったらまた『社長を引き受けてくれないか』と。まぁ、急に次の経営者を見つけろというのも無理な話なので、『1年だけなら』という条件で引き受けたんです」

 そこからはスカイマークの経営に本腰を入れることになる。一番の課題は離職率の高さを改善することだった。

「客室乗務員の離職率は30%くらいありました。こうなると稼働しているのは半分くらいなんです。残りの2割は新人と教育係ですから。これを改善していきました。

 それから賃金体系もバラバラだったので、部署ごとにある程度のレベルでそろえることも急務でした。高い賃金を引き下げられることで不満を持つ人もいましたが、それを説得しなければなりませんでした。反発もありましたけど、志のある人は、やむを得ないことだと理解してくれました。

 世の中の人にはずいぶん過激なことをやったような印象が残っているかもしれませんが、自分としては必要に迫られてやったことばかり。生き残るために、背に腹は代えられないという思いでやった施策ばかりでした」

 ちなみに「1年限り」という約束は反故にされ、その後も西久保は経営の陣頭指揮を執り続けた。