たとえば、養殖場のサケは、川を遡上することなく陸に上げられ、打撃で気絶させられ、エラを取られる。これを知った著者は「わたしが問題視するのは、このみごとな生き物たちの殺し方だけでなく、野生を剥奪していることなのだ」と嘆く。
けっして、ベジタリアンでも、より厳格なビーガン(完全菜食主義者)でもない。自分が狩りで獣を仕留めたときには、自分に誇りを感じ、死んだ獣に感謝し、そしてその肉を食べて味わう。それを基準だとすれば、人間の作ったシステムのなかで屠られていく生き物たちの姿は、あまりに不自然と感じたのだろう。
気づかぬまま広まっている過去と現代の隔たり
人類はもともと肉食性の生き物だ。生物界では、食物連鎖の頂点の1つに立つ。だから、肉食をやめることのほうが、むしろ生物としてのヒトらしさから遠ざかるように筆者には思える。
だが、長きにわたりヒトの営みとして自然に続いてきた肉食の方法と、現代に入りヒトの編み出した肉食の方法には大きな隔たりができてしまった。そして、社会に顕れる新たな技術に「時代はここまで来たのか」と驚くのとは違って、私たちが現代の肉食の方法が昔とずいぶん異なってしまったことに気づく機会は少ない。
「自分で生き物を屠らなくても、せめてそれがどうやってそこにたどりついた肉なのか知る努力をすべきだ」というのが著者のメッセージだ。食べる肉を、そして肉を食べることを見つめ直す機会はそうそう多くない。