鹿児島市から車を1時間強走らせると、南さつま市にたどり着く。同市には九州の西南端、日本本土の南玄関口に位置する要港として日本三津の1つにも数えられた歴史的港町、坊津(ぼうのつ)がある。近代には漁業の一大基地であったが、今は閑散としているのが現状だ。売れない魚はすぐに廃棄し、加工するための施設もない。
リアス式海岸の織り成す雄大な自然美に彩られた景勝地としても知られるこの港町で、手造りの魚醤(ぎょしょう)と燻製づくりをしている男性がいる。「坊津蔵」の村主賢治(68)代表だ。兵庫県芦屋市出身の移住者で、元は会社員のIターン者でもある。
「釣りも好きだし、島暮らしに憧れていましてね。子供たちの大学卒業などを機に、退職願を出したんです。52歳の時ですよ」
漁師をしながら魚醤づくりをスタート
夢を現実にするために、船舶免許や調理師免許、大型特殊、フォークリフト、危険物取扱など様々な資格を取得し、最初に移住したのが鹿児島のトカラ列島だった。
「長い間、島の方たちと馴染めませんでした。それまでも島の暮らしを夢見て何人も移住してきたようですが、みんなすぐ出て行ってしまう。私も同じような目で見られていました」
うまくコミュニケーションできず、頭を悩ませていた村主さんを救ったのは京都の友人だった。彼の仕事を手伝うため5カ月ほど島を離れた時に「なんで競争なんてして島の人に対して心を開かないんだ」と言われた。
「確かに島の人たちに対して自分も壁を作っていたと思います。もとは営業職ですから、気持ちを切り替えて島の人たちと心を開いて向き合ったら、うまくいくようになりました」
トカラ列島で漁師をしながら魚醤づくりを始め、11年経ったある日、新しい移住先として坊津が目に入った。
「ずっと島暮らしでもよかったのですが、トカラ列島もやって来る移住者に変化があったりしてもうこれ以上長く居られないかもしれないという思いがありました」
そして、2012年。坊津に移住し、漁と魚醤づくりを始めるが移住当初は販路もお金もなく焦っていたという。お金を稼ぐにはどうしたらいいのか? 地元の病院で調理の仕事があいていると聞いて、昼間は調理師の資格を活かして稼ぎ、夜は魚醤づくりという日々が続いた。
「工房があるのが、港の最寄りでしょう? 夜、ひとりで魚醤をかき混ぜているのを、みんな不審そうに見ていましたが、必死に働いているのが伝わったのか、地元の漁師が魚を持ってきてくれるようになったりしました」
手造り魚醤「坊津蔵 さかな醤油」ができるまで
村主さんの魚醤は手造り。未利用の魚をミンチにして10キログラム、それに水を5キログラム、塩を3キログラム足して20リットルの樽につけ込む。3カ月で魚醤になるという。
「魚醤特有の強い香りを和らげないかと考えて、鹿児島の水産技術センターや工業技術センターなどに相談をしました。麹を使うことで、改善できました」
そもそも魚醤の歴史は古く、古代ローマなどでもガルムなどの魚醤油があった。魚介類を主な原料にした液体状の調味料で、濃厚なうま味を有しているのが特徴だ。同じ液体調味料である醤油との成分を比較すると、うま味に関与するグルタミン酸は醤油のそれに匹敵すると言われている。一方で醤油と異なり糖分やアルコール分をほとんど含まない。
日本では秋田のしょっつるや、奥能登のいしる、香川のいかなご醤油などが魚醤として知られている。東南アジアではタイのナンプラー、ベトナムのニョクナムなども有名だ。
実際に村主さんの魚醤をなめると、うま味が口中に広がる。臭みも少なく、たまごかけご飯にも合いそうだ。
「魚醤はうま味の塊ですから、どんなものにも使えますよ」
村主さんの魚醤は、話題を呼び今では年間1万本を製造販売している。日本中で販売するのではなく、周辺の道の駅などに置いてもらっているという。そうすることで、欲しい人が坊津まで来てくれることを期待しているという。
「坊津の新しい産業として考えると、水産加工食品がいいと思っています。加工施設がないので、魚醤とそれから形のいいものは燻製ですね」
魚醤づくりに加え、燻製づくりも行う村主さん。自身も焼酎が大好きで、焼酎に合う加工食品として燻製を選び、工房内の手造り燻製室で燻製づくりにもいそしむ。
燻製も口にしてみると、魚のうま味がじゅわっと広がる。これはもうすぐにでも焼酎が呑みたくなる! そう話すと、村主さんは笑いながら、私も焼酎のおつまみが欲しくて作ったようなものだと話してくれた。
あと2年はこの体制で坊津の産業づくりを行い、70歳までには自分の思いを継いでくれる人にすべてを託したいと考えている村主さん。
「魚醤づくりと燻製づくりはだいぶうまくできてきたから、今度はウツボを使って産業づくりを考えているんですよ」
新しいことにチャレンジする気持ちは、褪せることなく今なお持ち続けているようだ。