SNSの発達により、「伝える」ということの意味が大きく変わってしまったように思う。
SNS以前は、「伝える」という行為には、「わざわざ伝える」という意味が内包されていたように思う。手紙でも電話でも、あるいは写真やビデオを撮るというのを含めてもいいかもしれないが、そういう「伝える」という行為によって重みが加わっていたように思う。
わざわざ手紙を書く、わざわざ電話する、というような行為に、言葉を介したやり取り以上の何かが伝わる。そんな意味合いがあったように思う。
SNS以後は、「伝える」の中から「わざわざ」という意味が欠落したように感じる。人間は、「伝える」ための手段をどんどん便利なものにしていき、その結果、「伝える」という行為に手間がかからなくなった。そうやって、「わざわざ」という意味が薄れていったのだ。
もちろん、SNSでのやり取りにも、言外の意味合いが伝わる部分はある。しかしそれは、SNS以前のようなプラスの意味合いというよりは、「伝える」という行為があまりにも便利になり、お互いの距離が近すぎる故の、ある種の嫌悪のようなマイナスの意味合いが強いように思う。
SNSは便利だが、便利であるが故に、コミュニケーションとしての濃度は薄くなってはいないだろうか、と感じることがある。
今回は、「伝える」という行為に、伝える側の気持ちがどのように乗っかっていくのかを描く3冊を紹介する。
「現地アピール」のための特派員
『こうして世界は誤解する ジャーナリズムの現場で私が考えたこと』ヨリス・ライエンダイク(著)、 田口俊樹・高山真由美(翻訳)、英治出版
本書を読むと、「報道」というものの見え方ががらりと変わる。
<私は常々、”ニュース”というのは世界の最も重要な出来事を集めたものだと思っていた。けれども特派員として半年を過ごして、現実が分かった。ニュースとは、非日常を ―規則の中の例外を─ 扱うだけのものだ。アラブのようにあまりよく知られていない世界ではこれが曲解を生む>
この本は、カメラの向こう側について記述する。報道で流れる映像のその向こう側で一体何が起こっているのか。報道で流れる映像がどんな力学によって選ばれているのか。報道するということの役割や意味は何なのか。ジャーナリズムについてほとんど何も知らないまま現場に放り込まれ、後に『ジュナリスト』誌のジャーナリストオブザイヤーに選ばれた著者が、現場で苦悩しながら考えぬいた、ジャーナリズムの現実についての話だ。
<それまでは、特派員というのは歴史的瞬間の目撃者だと思っていた。何か重要な出来事が起こったときにはそれを追いかけ、なりゆきを調査し、報道するものだと思っていた。が、私は事件を調べに行ったりはしなかった。それはもうずっと前になされていた。私は現地リポートをするために向かうだけだった>
特派員が取材をするわけではない。これは想像もしていない話だった。ではニュースというのはどう作られるのか?