歌舞伎役者や老舗の料理店、あるいはそこまででなくても医者や会社の経営者などの家に生まれることについて考えることは時々ある。彼らには、職業選択の自由はほぼない。まったくないわけではないが、少なくとも、両親からの期待を浴びながら育つことにはなるだろう。

 それは幸せなことなのだろうか、と思う。他の人が望んでもそう簡単に就けない職業に就くことができるという意味では幸運だと言えるだろうが、将来なりたいものが別にあるなら、それを諦めなくてはいけないという点で不幸だろう。

 生まれながらにして背負わなければならないものの存在は、僕にとっては恐怖だ。僕は、そんな風に縛られるのが苦痛だ。僕は「父親と母親の息子である」という縛りさえ、窮屈に感じてしまう。それはさすがに極端すぎると、自分でさえ感じるけれど。

 伝統に縛られる、大人の都合に縛られる、障害に縛られる。人はさまざまな形で、生まれながらの宿命を背負う可能性がある。僕自身はそういう宿命を背負ってはいないが、もし自分が彼らだったらどんな風に生きるだろう、と考える。その境遇の中で生きていられるだろうか、と考える。

 宿命から逃れられない人たちを描く3冊を紹介する。

[本コラム筆者(長江 貴士)の記事一覧]

自分という「個」から解き放たれるとき

花舞う里』(古内一絵、講談社)

『花舞う里』 古内一絵、講談社、税別1500円

 とある事情から東京の中学を離れ、母の故郷である名古屋の奥三河の澄川という集落に引っ越してきた潤。

 この土地は、長い長い伝統を持ち、日本全国でも特殊と呼ばれる形態の祭りを現代まで受け継いでいる。東京の「普通」に慣れ親しんでいた潤は、澄川の「普通」に初めは戸惑い、馴染めないでいる。

 小学校と併設の澄川中学は、潤を含めて生徒は4人。大柄でムチムチした馴れ馴れしい岡崎周。小柄で常に首にタオルを巻き、潤の面倒をよく見てくれる相川康男。そして、ショートカットで常に表情が硬い紅一点の神谷葵。彼らは、転校生である潤にことさら関心を抱くでもなく、ごく自然に潤を受け入れた。

 しかし潤の方は、他人を素直に受け入れる余裕はなく、特別彼らに馴染もうとするでもなく、基本的に1人でいた。潤に対して完全に無関心ではないものの、1人でいる潤が浮いてしまうでもないこの雰囲気は、正直ありがたかった。