北米報知 2013年9月12日38号

 「Sushi」「Ninja」「Sumo」――。当地市民の1人に知っている日本語を聞いて、返ってきた答えはこの3つだった。日本の「象徴」としても捉えられている相撲は近年、大相撲の世界だけでなく国際的な広がりをみせている。大相撲の9月場所初日を15日に控え、シアトルに残る記録をひもとき、世界から見た日本の相撲を考察する。

相撲、その成り立ち

 日本の国技として引き継がれる大相撲の歴史は非常に古く、現在見つかっている最古の記録としては、古墳時代の遺跡から発見された埴輪、須恵器などに相撲のようなものをしている様子が描かれている。

 元は神々に捧げる神事として行われていた。スポーツ、格闘技という性格を持ち始めたのは江戸時代に入ってからで、現在でも四股踏みなど相撲の所作の中には宗教的な意味を持つものが多い。

 「横綱」が生まれたのも江戸時代に入ってからだ。元々は大関の中で選ばれたものだけが腰に巻くことのできた「横綱」に起因するもので、現在西の横綱を務めている日馬富士関で70代目となる。

 現在の横綱、白鵬関と日馬富士関はどちらもモンゴル出身。日本人横綱は2000年の若乃花関以来、10年以上誕生していない。

 1993年に曙関が外国人力士として初めて横綱に昇進してから現在まで、7人の横綱のうち5人が外国人力士。先の7月場所番付の42人の幕内力士の中で外国人力士は14人を占めた。日本国内の相撲の若者人気が落ち込む中、大相撲の多国籍化は急激に進んでいるように見える。

シアトルと相撲

地元高校生の日本の角界入りを紹介する1973年10月10日付の本紙記事
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 シアトル出身者にかつて角界に在籍した人物がいた。1973年10月10日付の本紙では、日本滞在18年の父親と日本人の義母を持つ日本通の地元高校卒業生が日本の花籠部屋へ入門した様子を伝えている。

 またシアトル・タイムズ紙の前身のシアトル・デイリー・タイムズ紙によると、地元日系関係者のボビー・スエツグさんが1975年に日本に渡り、松龍山という四股名で主に幕下で活躍。一時は序の口にまで段位を上げた。

 シアトルと相撲の歴史をさかのぼると、その繋がりは意外にも深い。シアトル・デイリー・タイムズ紙に初めて「Sumo」の文字が現れたのは1910年、ジュリアス・ジョンソンなる人物が、柔術と相撲に精通している「イトウ教授」にレスリングで挑むという内容の記事だった。当時、イトウ教授は相撲に関する展示も開催している。

 5年後の1915年には、東京から大相撲がサンフランシスコ、バンクーバー、そしてシアトルに興行に来たという記述を見ることができる。その様子については、カナダ・バンクーバーの日系新聞、大陸日報紙が詳しく報じている。

――物珍らしの眼を光らせて我れも我れもと蝟集し来り中には呆気に取られて傍らの日本人に「いったい何んだ」なんて聞く者も三四見掛けたるが一体に「プロフエジヨナル・レスラー」と聞いて「あれが日本の角力取りか」と今更のように珍妙な顔をしたる白人も多かりき――(原文ママ)

 大相撲の一団がバンクーバーに到着した時の記事で、地元市民にとって力士は未知の存在であり、その一団に好奇の視線を向けていたことが分かる。