新年が明けてから神社の屋根についている「カツオギ」に端を発してカツオブシの製法まで、話をもろもろ飛躍させてきたわけですが、誤解のありませんように、これらはあくまで状況証拠の点と線を追って考えているもので、史実というわけではありません。
ただ、史実では絶対にない、という反証もまた困難な「よく分からない話」と思っていただけるとちょうどいいと思います。
こういう「よく分からない」でも面白い話というのは、ちょっと調べてみるといろいろあって、小説家などが時代ものを書く際、格好の題材を提供しています。
私がしばしば名前を挙げるのは司馬遼太郎と松本清張ですが、このお2人に限らず、一定の史実に基づきながら、傍証も参考にしつつ、説得力あるファンタジーを紡ぎ出していくのはなかなか刺激的な仕事です。
私もまた、自分の音楽の仕事を進めるうえで、様々な調べものをします。何となく思いついた話というのは、実はあまりそれだけでは説得力がない。「事実は小説より奇なり」と言うように、人間の実際の生業は、いくら掘り下げても尽きない魅力があるものです。
細部に神が宿る
とりわけ具体的な細部は机上の空論で描ききれるものではない。人間に身近であればあるほど、そういった細部に「神が宿る」ような気がします。
生魚は日持ちがしない。そこで加熱することを考える。石器時代の昔から人間は貝や魚を食べてきました(これは古代人が食べたあとの貝殻を捨てた「生ゴミ捨て場」である「貝塚」が各地に残ることが雄弁に語る通り)。
縄文式土器で魚をどう煮たのか、煮なかったのかは、よく分かりません。少なくとも魚肉などの有機物は土器と一緒に出土したとしても、考古学的にそれと確定することが困難でしょうから、史実とも史実でないとも言えない。
でも確かなこともあります。弥生式土器でサバの煮付けを作っても、そのまま放置しておけば、必ず腐ってしまったに違いない。古代は現代よりも食の安定供給の難しい時代です。非常に真剣に、食料の保存法が検討されたに違いない。
そんな中で見出されたであろう干し魚、とりわけ「煮干し技術」は、成功すれば共同体全体の生命を救う、いわば「命の与え主」神様と崇め奉っても、決して不思議ではないことであるような気がするのです。