旅に出る

 翌明治25年(1892)4月1日~7日まで第五高等中学校が春休みに入ると、セツとハーンは4月3日~5日まで、二人で博多を旅している。

 同年7月11日~9月10日までの夏休みの際には、二人で博多、神戸、京都、奈良、美保関、隠岐へと、約2カ月もの大旅行に出かけた。

 隠岐の島では、隠岐の士族の子である熊谷正義という少年を気に入り、二人は彼を養子に迎えるため、熊本に連れ帰っている。

 しかし、小泉一雄によれば、熊谷正義少年は愛育されたが、洋妾(ラシャメン)の歌を唄って、セツを侮辱したために、翌年(明治26年)8月、隠岐に送還されたという(小泉一雄『父小泉八雲』)。

 明治25年11月下旬、ハーンは「キリスト教会の鐘が近くに聞こえる」という理由で(田部隆次『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』)、「坪井旧宅」と呼ばれる坪井西堀端町35番地の借家に居を移した。

 冬の寒さ対策にガラス障子と薪ストーブを備えた八畳の書斎を離れに設け、ハーンは、出世作となる『知られぬ日本の面影』などの執筆に励んだ。

初めての子・一雄の誕生

 明治26年(1893)1月頃から、セツはハーンより、英語のレッスンを受け始めた。

 同月27日、ハーンの敬愛する嘉納治五郎の転任が報じられ、2月3日には送別会が開かれている。

 4月には、ハーンはセツの懐妊を知り、帰化を考えはじめたという(平川祐弘監修『小泉八雲事典』)。

 二人の初めての子・一雄が誕生したのは、同年11月17日のことである。

 セツは25歳、ハーンは43歳になっていた。

 一雄が生まれる前、ハーンはセツに「難儀をさせて気の毒だ」ということと、「無事で生まれてくだされ」ということを繰り返し口にしたという(小泉節子『思ひ出の記』)。

 セツが産室に入ると、ハーンは一晩中、眠らずに待った。

 無事に生まれたことを知ると、喜びのあまり産婆に抱きついて、キスしたという。

 一雄の『父小泉八雲』によれば、ハーンは初めての子に、自らの「ラフカディオ」にちなみ、「カジオ(梶夫)」と命名したかった。

 ところが、セツは「カジ」が芝居や浄瑠璃の敵役「梶原景時」に通じたり、火事を連想させたりすると反対。

 ハーンが英国人であるからと、「英雄(ひでお)」と名付けるように主張した。

 しかしハーンは、自分は英国人ではないし(ハーンは自分を決してイギリス人とは称さなかったという)、英雄は英語の「hideous(いまわしい、ぞっとする)に語呂が似ていて、よくないと反対する。

 そこで、一番目の男子(雄)なので、「一雄」と命名されたという。