「中国はいずれ巨大な国になる」と予測した参謀

 戦前から伊藤忠は綿花などで中国との取引があった。戦後、日本は台湾(中華民国)を中国政府と認定し、中国(中華人民共和国)とは正式な国交を結んでいなかった。それでも民間ベースでの交流はあり、貿易は「友好商社」と呼ばれる、中国側から認定を受けた会社を通じて行われていた。

 その多くが中国専業商社だったが、1972年3月、伊藤忠は大手商社としては初めて友好商社に認定される。この年の9月、田中角栄首相が訪中し、中国の周恩来首相と日中共同声明に署名、国交が回復する。

 それに伴い、友好商社の意味合いは薄れていくが、中国には「飲水思源(井戸を掘った人のことを忘れない)」ということわざがある。最初に関係を構築してくれた相手に対しては恩義を尽くすという意味で、伊藤忠は国交正常化以降も先行者利益を享受していった。

 当時の伊藤忠には瀬島龍三氏(のちに会長)の存在があった。戦時中は関東軍参謀として開戦から降伏まで軍の中枢にいて、戦後は11年間、シベリア抑留となり、帰還後、伊藤忠に入社。伊藤忠でも参謀として戦略の立案に関わり続けた。

瀬島龍三氏(1984年、写真:共同通信社)

 瀬島氏は「中国はいずれ巨大な市場になる」と予測し、中国ビジネスに本腰を入れる。実際、中国は鄧小平の指導の下、改革開放路線へとかじを切り、80年代以降、経済成長が本格化。90年代には「赤い資本主義」と呼ばれるほど、社会主義と自由経済が共存する、世界でも例を見ない国家となっていく。

 伊藤忠は積極的な中国投資によって改革開放を側面から支援する。1979年には北京駐在員事務所を開設、92年には現地法人である上海伊藤忠商事を設立、93年には中国の現法をコントロールする伊藤忠(中国)集団を設立する。いずれも大手商社としては初めてのことだった。

 一方、丹羽氏は1992年に取締役に就任。常務、専務を経て97年には副社長となり海外部門を管掌する。そして翌年社長に昇格した。

 丹羽社長時代、中国投資は一層拡大していく。ジャンルは資源開発から小売りまで多岐にわたったが、特に目立ったのが国有企業への投資だった。