2011年8月、中国チベット自治区ラサのポタラ宮(後方)前の広場を歩く丹羽宇一郎駐中国大使(当時)/写真:共同通信社
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 伊藤忠商事で社長・会長を務め、その後中国大使に任命された丹羽宇一郎氏が2025年12月24日に亡くなった。86歳だった。現在商社で時価総額トップを独走する伊藤忠の強みである「利は川下にあり」「中国戦略」の礎は、丹羽氏によってつくられた。

訃報が映す丹羽宇一郎氏の「3つの顔」

 丹羽宇一郎氏の死は、今年1月8日に公表され、新聞各紙はこの訃報を大きく取り上げた。

 ほとんどの新聞の丹羽像は、3つのパーツで組み立てられている。

 ひとつは、書店の息子として生まれたこともあり、読書家であり、勤勉家だったこと。読書の時間を確保するため、社長に就任してからもしばらくは電車通勤を続けており、その庶民性も評価されていた。

 2つ目は社長としての手腕だ。伊藤忠の社長に就任したのは1998年。前年には北海道拓殖銀行と山一証券が、98年には日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が経営破綻するなど金融危機に陥っていた。この危機はバブル時のモラルを欠いた不動産融資などによる不良債権によるものだが、これは金融機関に限った話ではなかった。

 伊藤忠も不良債権処理に苦しんでいた。そこで社長になった丹羽氏は、「隠している赤字をすべて出せ」と社内に厳命し、4000億円もの不良債権を一括処理した。これにより伊藤忠は2000年3月期に882億円の最終赤字に陥った。しかし、その甲斐あってV字回復、01年3月期には最高益を記録する。

丹羽宇一郎氏(2009年、撮影:横溝敦)

 筋を通す姿勢とそれをやり抜くリーダーシップも丹羽氏を語る時には欠かせない部分だ。

 そして最後は中国との関係である。伊藤忠は中国との縁がもっとも強い総合商社だ。関係が始まったのは1972年の日中国交正常化前からのことだが、丹羽氏の社長時代、伊藤忠は中国への投資をさらに加速させていく。そして2010年、丹羽氏は民間人初の中国大使に任命される。丹羽氏と中国は切っても切れない関係だった。

 この3つのパーツのうち、本稿では中国の部分を深掘りしたい。なぜ伊藤忠は中国と深く結びついたのか。そして丹羽氏が中国大使を務めたことにどのような意味があったのか。