2005年12月25日、有馬記念で追い込むディープインパクト(左)をかわし優勝したハーツクライ 写真/共同通信社
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(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

有馬記念を創設した人物とは

 競馬ファンは、季節の風ではなくスポーツ紙や競馬番組で告知される重賞レースの名に触れることで時の移ろいを知ります。12月も中旬に入ると、「有馬記念」の話題がスポーツ紙の競馬面を飾るばかりでなく、一般紙にも掲載され、「ああ、もう年末なんだなあ」という想いに浸らせてくれます。

 有馬記念は昭和31年(1956)の12月23日に最初のレースが開催されましたが、そのときの名称は「中山グランプリ」というものでした。今や日本で一番馬券が売れる人気レースとなりましたが、有馬記念は日本中央競馬会の第2代理事長だった有馬頼寧(よりやす)が中心になって創設しました。

 当時、府中の東京競馬場に比べ、客足に大きく差をつけられていた中山競馬場にファンを呼び込むための企画でもありましたが、ファンの人気投票によって出走馬を決めることで否応なく競馬ファンの耳目を集めることに成功しました。

 祖父に岩倉具視を持つ華族の有馬頼寧は戦前、貴族院議員として農林大臣を経験、昭和30年に第2代の日本中央競馬会理事長に就任します。今から70年前、まだ「JRA」などとアルファベットによる略称が使用される30年以上前のお話です。

 有馬は戦前のプロ野球界ともつながりを持っていて、昭和11年当時、プロ野球「東京セネタース」のオーナーでもありました(チーム名の由来は米国の上院議員(senator)からでしょう)。

 プロ野球にオールスター戦があるように、競馬ファンの投票によって選ばれた優駿たちが馬齢・牡馬牝馬を問わず覇を競う夢のレースこそ、最大のファンサービスでないか、というスポーツファンならではの発案でした。日本短波放送による実況中継を始めるなど、さまざまなファンサービスに努めた有馬でしたが、第1回「中山グランプリ」が開催されたそのわずか17日後、翌年1月9日に急性肺炎で亡くなります。

 競馬会は有馬の功績をたたえ、第2回開催から「有馬記念」と名称を変更し、有馬の名前がレース名として残されることになりました。正式名称は「有馬記念(グランプリ)」というもので、「グランプリ」のネーミングが創設時の名残を感じさせます。

 ちなみに、初代日本中央競馬会理事長は日本ダービーなどのレース体系の基礎を築いた安田伊左衛門という人物で、毎年6月上旬に東京競馬場で行われるG1レース「安田記念」にその名が残され、東京競馬場には安田の胸像が建てられています。