撮影/西股 総生
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回の名城シリーズは、黒田長政が築いた福岡城を紹介します。
熊本城に次ぐ九州第二の名城
九州で第一の名城といったら熊本城であるが、ではそれに次ぐ九州第二の名城といえば、これは間違いなく福岡城である。
第三・第四となったら、小倉城・島原森岳城あたりが指折られるであろうが、福岡城はこれらよりもぐっと格上、つまり二位は二位でも三位に大差をつけての堂々の二位だから、福岡の人たちはホークスだけでなく、福岡城にももっと自信と誇りをもってよいと思う。
その福岡城を築いたのは黒田長政だ。長政はそもそも覇気満々の勇将にして謀将、関ヶ原合戦の功により堂々筑前52万石に封じられての築城だから当然、力が入る。
南ノ丸多聞櫓は重要文化財(幕末の建築)。櫓を載せている石垣も長政時代の貴重な遺構である
博多にはすでに小早川隆景の築いた名島城があったものの、長政は新城建設を決意する。名島城は朝鮮出兵で水軍の主力を担う隆景が築いた城だから、博多湾に面した兵站基地たることに重きが置かれている。反面、陸戦用の城としては占地に芸がなく防禦面に不安があったので、長政は見切りをつけたわけだ。
南ノ丸の内側から見た南隅櫓(重文・幕末の建築)。写真右手が多聞櫓に続いており複雑なフォルムを見せている
彼が目を付けたのは、博多の中心部から西に2キロほどはずれた低い丘。海岸線からも1キロばかり入った場所で、港や町場との位置関係を考えるなら中途半端にも思える。
しかし、この丘には古代には鴻臚館(古代の迎賓館)が置かれていたし、文永の役に際しては博多防衛の要地として激戦地となっている。北側から西側にかけて沼沢地が取り巻いているから、中々の要害なのである。
三ノ丸北面の広大な水堀。画面奥は大濠公園に続いており敵を寄せ付けない
そんな場所にピタリと狙いを定めた長政の眼力は、さすがといえよう。余談だが、現在の福岡ペイペイドームができる以前の平和台球場(懐かしいー)も、この場所にあった(福岡城の三ノ丸)。福岡という都市の起点とも、ヘソとも評すべき丘なのである。
そんな丘の上に本丸・二ノ丸・東ノ丸・南ノ丸といった城の中心部を置いて、高石垣でカッチリと固める。関ヶ原合戦後の九州は、多くの大名たちがバタバタと異動していたから、政情不安も甚だしい。実際、黒田長政は隣国である豊前の細川忠興と対立し、一触即発に至っている。そのような状況下で「52万石の大封にふさわしい城」とは、数万の敵に攻められても持ちこたえられる、大軍での籠城が可能な要塞でなくてはならない。
大手門(下の橋御門)と伝潮見櫓は、いずれも貴重な現存建物だ(伝潮見櫓は城内他所からの移築)
曲輪の虎口は徹底的に枡形化して通路を執拗に折り曲げたので、城の中心部は石垣造りの巨大な迷路と化している。それらを取り囲む広大な三ノ丸は、沼沢地を利用して水堀で防禦した。とりわけ城の西側には大きな沼が広がっていたから、西側から城にアプローチするのは不可能だった。現在の大濠公園である。
長政の築城思想をもっとも顕著に読み取れるのが、城の最深部の縄張である。天守台の周囲が執拗なまでに迷路化されて、天守への侵入を阻んでいる。たとえ本丸に敵兵が乱入してこようとも、天守に籠もって徹底抗戦するつもり満々なのである。
黒田長政が築いた天守台の石垣。慶長一桁台の典型的技法を示しており、城郭史上の標準化石ともいうべき貴重な石垣だ
もちろん、天守も建っていたわけで、江戸時代の初期には天守が存在していたことはわかっている。けれども、絵図面等の史料が残っていない(少なくとも現時点では見つかっていない)ので、どんな形の天守だったのかはわからない。今後も、天守の形が具体的にわかる、信頼度の高い史料が発見される可能性は低いだろう。
イベント用に天守台に組まれた醜悪な仮設物。夜はピカピカ光ったらしい
その天守を「復元」しようという声が、一部から上がっているらしい。不思議な話だ。形も構造もわからないものをどう復元するというのだろう? それは「復元」ではなく、「捏造」とか「でっち上げ」と呼ぶのが正しい。
インチキな天守なんか捏造しなくたって、福岡城は最初から立派に名城だし魅力的ではないか。捏造したいという人たちは、福岡城が名城だとも魅力的だとも思っていないのだろうか。愛が、ないなあ。
本丸の石垣。長政が肥前名護屋城の築城や朝鮮出兵で身につけた技術を注ぎ込んで築いたものだ








