英語は日本女性の美徳を損なう?
セツの懐妊や出産により、英語のレッスンは中断された(筑摩書房編集部『小泉八雲 ──日本を見つめる西洋の眼差し』)。
明治27年(1894)10月に、セツとハーンの一家は熊本から神戸に転居している。
明治29年(1896)2月には、ハーンは帰化手続きを終え、「小泉八雲」に改名した(以下、小泉八雲と表記)。
同年の9月には、八雲が帝国大学の講師に就任したため、神戸から東京に居を移している。
セツは、英語のレッスンの再開を望んだ。
ところが八雲は、英語は日本女性の美徳を損なうとの考えに至り、セツの願いを退けた。
しかし、明治34年(1901)1月頃、八雲はレッスンを再開し、セツに英語筆記体を教えている。
セツが、八雲から与えられた英語の例文を手本として書き写したと思われる「英語筆記体練習帳」が残っており、おそらく、書き方に限定しての英語学習だったと考えられている(長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』)。