撮影/西股 総生
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回の名城シリーズは、岩手県盛岡市にある志波(しわ)城を紹介します。
陸奥国の最北部にあった城柵
志波城は、盛岡市の南郊にある古代城柵(じょうさく)遺跡だ。といっても、「城柵」とはどんなものなのか、ピンと来ない方もあるだろうから、基本的なことを少し説明しておこう。
大化の改新が起きた7世紀の半ば頃、朝廷の支配が及んでいたのはおおむね現在の新潟市と宮城県白石市を結んだラインあたりまでで、その北には「蝦夷」と呼ばれる人々が住んでいた。「蝦夷」とは「国家の支配に服属していない者ども」のような意味であって、必ずしも異民族を指しているわけではない(東北北部にはアイヌ系の人々も住んでいた)。
写真1:志波城の復元された楼門と築地塀。発掘調査の成果を基に広大な歴史公園として整備されている
そんな彼らを服属させ、律令国家が版図を北上させてゆく「侵略」の拠点となった施設が、城柵である。戦後、城柵遺跡の発掘調査が進むにしたがって、中心部は国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)といった地方官衙と同じ構造をしていることがわかってきた。官衙とは役所のことである。また、官衙区画の周囲からはたくさんの竪穴住居が見つかって、集落が形成されていたこともわかった。そこで、城柵といっても要塞ではなく、実態は地方支配のための役所だ、という説が唱えられるようになった。
写真2:中心部の政庁正殿跡。重要な儀式や政務が行われた場所だ
写真3:発掘調査でみつかった建物の柱の位置が表示されており、往事の威容をしのぶことができる
けれども、こうした考え方は現在では支持を失っている。なぜなら、城柵の周囲には巨大な土塀や堀が廻り、要所には櫓や楼門を構えていたことがわかったからだ。また、城柵には軍団が配置され、城柵の周囲には東日本各地から住民が移住させられていたことも、文献史料からわかってきた。強制的な移住・入植による蝦夷同化政策なのである。
どうみても侵略行為であり、その核となる軍団の駐屯地が城柵なのである。これを軍事基地といわずして、何という。城柵の中枢にある官衙区画は、侵略地域を律令政府の支配下に組み込むための軍政司令部でもあるわけだ。
写真4:写真1の楼門から政庁区画を見たところ。この大路を田村麻呂将軍が歩いていた
そうした城柵の中でも、陸奥国の最北部に位置していたのが志波城である。築かれたのは桓武天皇治下の803年(延暦22)、蝦夷征討の任を帯びてこの地にやってきた坂上田村麻呂の手になるものとされている。
この頃の東北地方は、774年(宝亀5)に蝦夷が蜂起したことに始まる争乱状態(いわゆる38年戦争)が続いていたから、田村麻呂は最前線の基地として、志波の地を選んだことがわかる。城は、北上川と雫石川との合流点に近い微高地のへりに位置していて、北に対して備える意識が見てとれる。
写真5:外郭の築地塀は規模が大きく、等間隔で櫓が置かれていた。外側には堀も廻っている
さいわい志波城は、大がかりな発掘調査によって実態が明らかにされている。まず、城の中心部には150m四方の築地塀に囲まれた官衙区画があって、政庁などの重要な建物が置かれ、周囲には実務を行う事務所のような建物が並んでいた。これらを囲む外郭の築地塀は実に840m四方にもおよび、さらに外側には堀も廻っていた。
写真6:中央から派遣された役人が実務に当たった建物も復元されている
外郭からは、兵舎や工房として使われた竪穴住居址が見つかっているが、その総数は1200〜2000棟にも及ぶと推定されている。もっとも、駐屯した兵たちのほとんどは職業軍人ではない。周辺の住民から徴発された者たちや、関東などの軍団から選抜されて送り込まれた者たちである。家族と別れ、高い塀に囲まれた場所で、彼らは何を思って日々を送っていたのだろう。
写真7:復元された竪穴住居は兵舎である。壮麗な楼門とのコントラストがやるせない
このように、志波城は巨大な軍事基地であったが、上述したような立地だったゆえ水害には悩まされたらしい。811年(弘仁2)に38年戦争が収束する頃には、当地より南に徳丹城が築かれて、軍事基地や行政府としての機能はそちらに移転した。
廃墟となった志波城は、やがて田畠となっていったが、人々はこの地を「方八丁」と呼び続けた。880m四方の囲まれた場所、という意味である。
写真8:志波城は10年ほどで役目を終え、巨大な施設は次第に朽ち果てていった









