坂上田村麻呂が築いた北辺の城柵「志波城」、地方支配のための役所よりも、侵略のための軍事施設である証拠 撮影/西股 総生 (画像1/9) 写真1:志波城の復元された楼門と築地塀。発掘調査の成果を基に広大な歴史公園として整備されている (画像2/9) 写真2:中心部の政庁正殿跡。重要な儀式や政務が行われた場所だ (画像3/9) 写真3:発掘調査でみつかった建物の柱の位置が表示されており、往事の威容をしのぶことができる (画像4/9) 写真4:写真1の楼門から政庁区画を見たところ。この大路を田村麻呂将軍が歩いていた (画像5/9) 写真5:外郭の築地塀は規模が大きく、等間隔で櫓が置かれていた。外側には堀も廻っている (画像6/9) 写真6:中央から派遣された役人が実務に当たった建物も復元されている (画像7/9) 写真7:復元された竪穴住居は兵舎である。壮麗な楼門とのコントラストがやるせない (画像8/9) 写真8:志波城は10年ほどで役目を終え、巨大な施設は次第に朽ち果てていった (画像9/9) 坂上田村麻呂が築いた北辺の城柵「志波城」、地方支配のための役所よりも、侵略のための軍事施設である証拠 この写真の記事を読む