三原城 撮影/西股 総生
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(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回の名城シリーズは、広島県三原市にある三原城を紹介します。

瀬戸内海のど真ん中にある港を要塞化

 新幹線の駅から近い城というと、真っ先に思い浮かぶのは福山城。駅を降りると目の前に石垣と復元された櫓がそびえていて、駅から城まで徒歩0分……というか、そもそも福山駅が城の二ノ丸に建てられているから、近いのも当然である。

 だが、「新幹線の駅から近い」ことにかけては、三原城の右に出る城はない。何せ、三原駅が城の本丸にあって、コンコースを抜けると天守台……というか、コンコースを通らないと天守台に上がれないのだ。そして、この天守台の石垣が何とも見事。

写真1:三原駅から見た天守台の石垣と水堀。城のすぐ背後まで山裾が迫っていることに注意

 三原はかつての備後の国であるが、位置としては岡山と広島の間にあって、少々地味な街だ。城も石垣ばかりで建物が残っていないので、やはり地味な印象がある。山陽道の城めぐりをするなら、明石城から始まって、姫路城・赤穂城・岡山城・福山城ときたら次は広島城、と考える人も多いだろう。

 けれども三原城は、石垣だけでも一見の価値がある。一見どころか、石垣が好きな人なら何時間でも眺めていたくなるくらい美しい。

写真2:水堀ごしに天守台を見る。江戸時代には巨大な天守台に隅櫓と多聞櫓が建っていた。小早川隆景は本当は何を建てたかったのだろう?

 城の歴史をひもといてみよう。もともと三原の地は瀬戸内海に面した港町で、小早川氏配下の城があった。やがて、毛利元就の三男である隆景が小早川家を継ぐと、三原城は毛利軍の戦略拠点として重視されるようになり、隆景の実質的な居城となっていった。

 こうして城は次第に拡張改修されていったが、文禄4年から慶長元年(1595)に本格的な近世城郭として整備された。現在残る城の姿は、このときに整えられたものだ……と整理してくると、三原城が重視された理由も見えてくる。

写真3:天守台石垣の算木積み。文禄〜慶長初年の技法を伝える標準化石として価値が大きい

 瀬戸内海のど真ん中に位置する港を、そのまま要塞化したのが三原城なのである。水軍基地としても、兵站中継基地としても重宝この上もない。瀬戸内沿いに勢力を広げる毛利軍が重視したのは当然だし、上述した時期に本格的な近世城郭となったのも、朝鮮出兵に対応した措置とわかる。明治初期には、三原城を海軍基地にする構想もあったといわれるほどだ(実際には呉に基地が置かれた)。

 そんな三原城ではあったが、文禄・慶長の役が失敗に終わり、関ヶ原の合戦で毛利家が長門・周防に逼塞すると、戦略的価値が一気に低下してしまう。小早川家を継いだ秀秋は、関ヶ原では東軍について備前に封じられたものの、ほどなく病没して小早川は絶家。安芸・備後には福島正則、次いで浅野長晟が入って広島城が本拠となり、三原は広島藩の支城という地位に甘んずることとなった。

写真4:明治に入ると城域は市街地化が進んでいった

 さらに明治になると、本丸には山陽本線の三原駅が置かれることとなる。上掲の写真1でもわかるように、もともと海の近くまで山裾が迫っていた三原は平地が少ない。城も、船着き場の機能を重視した海城だったから、本丸を中心として海岸に沿って東西に曲輪を並べる縄張だった。そんな城の中心に駅ができるのだから、二ノ丸以下も鉄道用地や駅前広場となって、次第に遺構を失っていった。

写真5:駅の高架下にも本丸の石垣が残っている

 それでも、壮大な天守台の石垣はよく残っていて、そこから本丸の石垣が駅の高架下に続いていたりする。高架をくぐって駅の反対側へ出て街中を訪ね歩くと、あちこちに二ノ丸以下の石垣が残っていたりと、見所は意外に多い。

 福山城から広島城へ向かうときに三原で途中下車しないなんて、もったいなさすぎるのである。

写真6:駅周辺の市街地を歩くと随所に石垣が残っている。探検してみよう