今治城 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回の名城シリーズは、愛媛県今治市にある今治城を紹介します。
海と直結し船着き場の機能を持つ「海城」
前回(9月17日掲載)の三原城に続いて、瀬戸内の海城である。海城というのは、海に面して築かれ船着き場と直結する構造をもつ城のことだ。水城という言葉もあるが、湖や河川に関わる城と区別して、海浜部の城をあえて「海城」と呼んだりする。
さて、伊予の今治城は、瀬戸内海をはさんで三原城と向かい合う位置にある。つまり、瀬戸内海中央部の北岸が三原、南岸が今治というわけだ。両地の間の海には、因島・生口島・大三島といった島々が浮かんでいて、航路をこれら間を複雑に縫って進む。ね、今治って要衝でしょう?
写真1:本丸の模擬天守から眺めるとこの城が海だったことが実感できる。画面下に藤堂高虎像
その今治城を築いたのは藤堂高虎だ。豊臣政権下で頭角をあらわした高虎は、南予の宇和島(板島)に7万石で封じられていたが、早くから徳川家康とも親交をもっていた。関ヶ原では東軍に属して伊予東半20万石を与えられ、この城を築いたわけだ。
高虎が今治に入部した時点で周囲を見ると、まずお隣の伊予松山には賤ヶ岳七本槍の一人である加藤嘉明(20万石)、反対隣の讃岐には生駒一正(17万石)。お向かいの備前・美作は小早川秀秋(50万石)が、安芸・備後には福島正則(50万石)がそれぞれ封じられていた。
写真2:本丸・二ノ丸の東側の石垣と水堀。平城としては本丸の石垣が高いことがわかる。向こうに見えるのは復元された御金櫓
これら諸大名は、関ヶ原ではいずれも東軍側に属したものの、もとはといえば織田信長・豊臣秀吉に取り立てられた武将たちだ。徳川・豊臣間で緊張が高まった場合、彼らがどう動くかは不透明で、瀬戸内の情勢は一気に流動化する危険を秘めていた。
そうした中、親徳川の立場を鮮明にして今治に封じられた高虎が、家康から期待されていたのは、瀬戸内の隘路を制圧することである。高虎はすでに宇和島城主時代、伊予水軍を率いて文禄・慶長の役に従軍していたからだ。
写真3:城内に立つ藤堂高虎の像。「風見鶏」の評もあるが機を見るに敏な武将だったのだろう
ゆえに今治城は、海と直結し船着き場の機能を持つ「海城」として築かれることとなった。全体の縄張は四角い曲輪を回字形にめぐらせた環郭式で、幅広の水堀には海水を引き入れ、海に面して大きな舟入を備えていた。城域全体では23基の隅櫓があったが、その大半は城の北面、つまり海に面した側に建っている、といった具合だった。
現在残っているのは中心部の本丸・二ノ丸と、それを囲む広大な水堀だけで、周囲をめぐっていた曲輪も舟入も市街化してしまっている。本丸には白亜5重の天守がそびえているもけれど、1980年に落成した史実に基づかないコンクリ模擬天守だ。
写真4:本丸に建つ模擬天守。史実に基づかないコンクリ天守がかっこよく写るアングルを探すのも楽しい
高虎は慶長9年(1604)には伊勢・伊賀に転封となり、その際に今治城の天守を伊賀上野城へ移築しようと考えたものの、丹波亀山城の天下普請に際して献上した、という説がある。ただ、今治城の本丸には天守台がないので、もともと天守はなかった可能性も高い。
現在のコンクリ天守は、大きな入母屋破風を重ねた望楼式で、古写真に見える丹波亀山城の天守(層塔式)とは似ても似つかない。しかも、天守台ではない普通の櫓台の上に5重の天守を載せ、最上階に高欄・廻り縁まで欲張ったために、逓減率が不自然でいかにも作り物っぽく見える。
写真5:このアングルから見ると模擬天守の設計に基本的な無理があったことがわかる
古写真で見ると今治城の本丸・二ノ丸は、2重の隅櫓を高密度で配し、その間を多聞櫓でつなぐという、要塞のような景観であった。不自然な天守を強引に建てるより、こちらの景観を再現した方が城の個性が際だって、今となっては人気が出ただろう。惜しいことをしたものだ。ちなみに、古写真に見える今治城の隅櫓は層塔式で、こちらの方が丹波亀山城の天守とデザインに共通性がある。
写真6:復元された山里櫓と櫓門。写真5よりこちらの方が城らしい景観だ
高虎が伊勢・伊賀に転じたのちも、今治は藤堂家の飛地であったが、寛永12年(1635)にはそれも解消される。後には3万5千石で松平家が入って、明治まで続いた。
そんな歴史を踏まえて古写真を眺めていると、思ってしまうのだ。隅櫓と多聞櫓が連なるこの城を、3万5千石で維持するのは大変だっただろうなあ、と。
写真7:本丸南隅櫓の石垣。慶長1ケタ年代の石積技法を伝える貴重な遺構だ。堀に面して犬走が廻っている








