いまのインパール(写真:AP/アフロ)
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 歴史、政治、時事問題など幅広いテーマで文筆活動を行う作家の古谷経衡氏はライフワークとして、国内外の太平洋戦争の戦跡を訪れ歴史を追体験してきた。日本軍は国外でいかに戦い、地獄を見たのか。『激戦地を歩く レイテ、マニラ、インパール、悲劇の記憶』(幻冬舎新書)を上梓した古谷経衡氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──インド北東部のインパールを訪問された経験について書かれています。太平洋戦争について書く専門家でも、インパールを訪れない人が多いと書かれていますが、実際に訪れるとどのような場所ですか?

古谷経衡氏(以下、古谷):日本軍が占領していたビルマから徒歩で進軍して占領を狙ったのがインパール作戦です。1994年の3月に作戦が始まり、同年7月に作戦の中止命令が出されましたが、その後も地獄の撤退が続きました。

 10万人の日本兵がこの作戦に参加し、そのうちのおよそ3万人から4万人が餓死したと言われる、とんでもない作戦です。昼間はイギリス軍が襲ってくるので動けない。そこで夜間だけ、70~80キロの荷物を背負って山道を歩くのです。

 私はずっと実際のインパールはどんなところなのかと疑問に思っており、日本軍が入っていったアラカン山脈の山道の写真などを探しましたが、あまり見当たりませんでした。

 インパールは現在およそ26万人が住む街です。私はインドのコルカタから乗り継いでインパールに行きました。ただ、インパールにはストレートにはいけないので、コヒマという街で車をチャーターし、ガイドの人に連れていってもらいました。

 コヒマは、第二次大戦時のイギリスの補給ポイントで、日本軍が占領した一番奥地です。

 今も当時も状況は変わりませんが、崖から車がしばしば転落するようなとんでもないところでした。

 人が歩くような舗装された道はありません。昼間でも真っ暗な鬱蒼としたジャングルで、赤土がむき出しになっており、常に霧状の雨が降っていました。水分が土に溜まっていて、ボンとはじけるように土砂崩落も起こる。

 そうした環境の蛇のようにグネグネした山道が、コヒマまで続きます。私とガイドさんと運転手の3人で進みましたが、到達まで車でも5時間ぐらいかかりました。

──インパール作戦の終盤、日本兵や女性たちが手榴弾で自決していったことについて書かれています。