負担能力がなければ無能な人間なのか

――突然の危機的状況になって、どこかに相談されましたか。

勅使川原 全国のがん診療連携拠点病院や地域がん診療病院に「がん相談支援センター」がありますが、お恥ずかしながら当時は知らなくて、自治体の生活支援相談室に行ったんです。そうしたら「いざとなったら、生活保護も検討してください」とアドバイスされるだけ。

 しかも、相談員さんは、なぜか私が漢字を読めないと思ったらしく、パンフレットの漢字を読み上げては意味を説明してくれる……どうやらこんな状況に陥るのは人生の努力が足りなくて勉強もできない人だろう、だから貯金も、稼ぐ能力もないだろうと判断されたみたいに感じました。

 その方に悪気はなかったと思うし、すべての相談員さんがこのような対応をされるわけではないでしょうが、「将来のことも考えずに子どもを産んじゃったのね」という雰囲気で応対されたことは、ものすごくショックでした。

――がんに限らず病気になるとマイノリティになるわけで、急に見下されることがたびたび起こります。

勅使川原 病気になったことは能力と関係ないはずなのに、生活が苦しくなったとたんに〈無能〉扱いされるような社会であってはならないと思います。ましてや「生きていてごめんなさい」と当事者に思わせるような制度は、絶対にいけない。私はその手には乗るものかと開き直っていますけれど、高額療養費制度の見直しで負担増あるいは給付減となることで、そう思わされる人は少なくないでしょう。

 高額療養費制度の問題だけでなく、いろんなところで「みんなを助けるわけにはいかないから、本当に困っている人だけを助ける」という言説が蔓延しており、非常に根深いものがあります。

 拙著『格差の“格”ってなんですか?』の中で、〈よりよい社会〉〈やさしい社会〉を目指そうとするとき、「どう『分ける(分類・区分する)』ことが『わかる』ためには適切で、その結果いかに、限りある資源を『分け合って』生きるべきか?」という問いを掲げました。いまの社会は分け合おうと言いながら、より優位になるために競争し、より多くをつかもうと効率を重視する。分け合うことのすぐそばに〈分断〉がある社会だとも言えます。

 国の財源には限りがある。だから、社会保障もみんなで分担しましょうというのは当然ですし、そのためには所得という「能力」に応じた負担を「分け合う」ことになるでしょう。しかし、なぜまっ先に重症度が高い病気や怪我を抱えた人たち=高額療養費制度を使う人たちをターゲットにすることになったのかについては、疑問しかありません。