遺伝性がん患者の「生殖をめぐる自己決定権」

 第四章「遺伝性がん患者に『生殖をめぐる自己決定権』はないの?」は、さらにディープで難しい内容である。ナチスドイツに限らず、トップダウンによる優生学は日本を含む多くの国で問題を引き起こし、今はもうなくなっている。そういった「過去の優生学」でなく、各個人が自分の子どもに優れた形質を付与したいというボトムアップ的な「新しい優生学」、またの名を「リベラル優生学」から話は始まる。新自由主義にもつながるこの考え、はたして否定することができるだろうか。

 PGT-Mが日本で規制されている理由は、命の選別につながりかねないからである。ある単一遺伝子の異常による重篤な疾患について考えてみよう。その患者さん、あるいは保因者が子どもを作りたいとする。PGT-Mによって、特定の異常のない受精卵を選別することは技術的に可能である。それが進められた時、その疾患の患者さんが、我々は生まれてこなければよかったということなのかと訴えかけられるのは当然のことだろう。

 一方で、それを理由にPGT-Mが制度的に制限されるのは個人の「生殖の自由を侵害する」ことになるのではないか。どちらの考えを優先させるか。難しいとばかり言っているが、これは本当に難しい問題としか言いようがない。

 少しテイストが違う第五章は、非対称にならざるをえない医師患者関係について、その改善を目指す「患者と専門家の新しい関係、知識の差を乗り越える試み」だ。この章の最後、「哲学者が遺伝性のがんになるということ」のセクションは、著者自身による簡単な本書の解説のようになっているので、ここから読み始めるのもいいかもしれない。

生殖倫理など幅広い分野に考えを広げる

 第一章の最後の部分、少し長くなるが紹介しよう。

「もちろん、わたしの話を聞いて読者が共感してくれることがあれば嬉しいが、納得できないと感じることも、等しく歓迎されるべきことだ。その際には『この意見、わたしは嫌い』と感じて終わるのではなく、どうして納得できないのだろうと自分の中で問い続け、自分の意見を支持する、いちばんもっともらしい理由や根拠は何だろうと考え続けてもらいたい。」

 この本を読むことにより、遺伝性がんだけでなく、他の遺伝性疾患、がん、生殖倫理など幅広い分野について学び、考えることができる。私の場合、PGT-Mの問題、リベラル優生学の問題、生殖ツーリズムの問題など以前から気になっていたテーマについて、あらためて違った角度から深く考え直すことができた。

「これを読んでいるあなたが、哲学的問題を考える契機となることができれば、それはとても光栄なことだと思う。」

 最初に書いたように、著者の考えが納得できかねるところもあった。しかし、哲学的問題を考える契機を与えてもらえたことは間違いない。それはとても嬉しいことだと思っている。

仲野 徹(なかの・とおる) 1957年、大阪生まれ。大阪大学医学部卒業。内科医として勤務の後、基礎医学研究に従事し、1995年大阪大学教授。2022年の定年退職後は隠居として晴耕雨読の生活。書評サイトHONZのレビュアーや、読売新聞の読書委員を務めた。
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各界の読書家が「いま読むべき1冊」を紹介!—『Hon Zuki !』始まります

(堀内 勉:多摩大学大学院教授 多摩大学サステナビリティ経営研究所所長)

 この度、読書好きの同志と共に、JBpress内に新書評ページ『Hon Zuki !』を立ち上げることになりました。

 この名前を見て、ムムッと思われた方もいるでしょうが、まさにお察しの通りです。2024年9月に廃止になった『HONZ』のレビュアーだった私が、色々な出版社から、「なんで止めちゃうんですか? もったいないですよ!」と散々言われ、「確かにそうだよな」と思ったのが構想のスタートです。

 私、個人的に「読書家の会」なる謎の会を主催していて、ただ定期的に読書家が集まって方向感もなくひたすら本の話をしています。参加資格は本好きな人という以外特になくて、私がこの人の話を聞いてみたいと思える人というかなり恣意的なのですが、本サイトの基本精神もそんな感じにしたいと思っています。

 簡単に言えば、本好きという自らの嗜好に引っ張られ、書かずにはいられないという内なる衝動を文章にしたサイトというイメージです。もっと難しく言えば、カントの定言命令のように、書評を書くことを何かの手段として使うのではなくて、書評を書くことそれ自体が目的であるような、熱量の高いサイトにしたいということです。

 それでまずオリジナルメンバーとしてお声がけしたのが、『HONZ』の名物レビュアーだった仲野徹先生と『LISTEN』の発掘で一躍本の世界の中心に躍り出た篠田真貴子さんです。まあ、本好きという共通点を持ったタイプの違う3人と思って頂ければ結構です。

 ジャンルとしては、基本はノンフィクションで、新刊かどうかは問いませんが、できるだけ時事問題の参考になるものというイメージです。レビュアーの方々には、とりあえず3カ月に一回くらいは書いて下さいねとお願いしています。

 少し軌道に乗ったら、リアルでの公開講演会とかYouTube動画配信とかもやっていきたいと思っています。出版社の方々とも積極的に連携していきたいと思っていますので、宜しくお願い致します。