ノーベル平和賞、せめて記念樹を植えるぐらいできないのか

 広島市の平和行政の中核を担う市平和推進課に率直に尋ねてみた。

 為政者のレガシーだけを形にして残すだけではなくて、核兵器廃絶を訴え続けてきた被爆者団体の栄誉、市民社会の長年の努力に対する敬意を形にするべく、せめて記念植樹ぐらいはしても良いのではないでしょうか――。

「今のところ、考えているものやお伝えできるものはありません」「日本被団協のノーベル平和賞受賞に対応する部署はない」。それが、担当者の答えだった。

「世界中の指導者は核抑止論が破綻していることを直視し、理想へ導くための取り組みを早急に始める必要がある」。広島市の松井一実市長は、サミットから2カ月半後、広島原爆の日で毎年ある8月6日に挙行される平和記念式典でそう力強く訴えた。

 この年に限らず、松井市長は、「為政者」「市民社会」というフレーズを多用し、「為政者」を訴えるべき相手方、そして自らをわたしたち「市民社会」の中に位置付けた形でスピーチをしている。日本政府が参加を拒んだ核兵器禁止条約関連の国際会合にも足を運び、「市民社会」として意見を述べてきた。

 昨年、2024年の平和宣言ではこんなことを言っていた。「広島市は(中略)市民社会の行動を後押しし、平和意識の醸成に一層取り組んでいきます」

 よって立つのは市民社会であるというのならば、なぜ、為政者のイベントには巨額の金を投じてモニュメントを作る一方で、市民社会の代表でもある日本被団協の功績を未来永劫記憶するためのモニュメント作りは検討すらしないのか。著しくアンフェアではないだろうか。