ドレフュス事件
キリスト教が広まったヨーロッパ社会では、キリスト教徒はユダヤ教徒を軽蔑してきた。こうして中世以来、ユダヤ人は差別や迫害の対象となり、就くことのできる職業も限定された。極論すれば、人間として扱われなかったのである。それだけに、ユダヤ人は宗教的にも、人種的にも強固なアイデンティティを確立していった。
このユダヤ人蔑視の感情や行動は、19世紀後半のヨーロッパで、ユダヤ人はセム語系統の民族であって、西欧のアーリア民族に比べて劣っているという人種主義思想となり拡散した。これが「反ユダヤ主義(Antisemitism)」である。
ロシアでは、1881年にアレクサンドル2世が暗殺されたが、反ユダヤ主義者は、これをユダヤ人の犯行と決めつけて、多数のユダヤ人を虐殺した。そして、それ以降、「ポグロム(ロシア語で、〈破滅〉、〈破壊〉を意味する)」と呼ばれるユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れた。
反ユダヤ主義を象徴するのがフランスで起こったドレフュス事件である。ユダヤ系のアルフレッド・ドレフュス大尉がドイツのスパイだという嫌疑をかけられ、1894年10月のパリ軍法会議で有罪になり、翌年4月に仏領ギアナの悪魔島に流刑になった。
ドレフュスの無罪を確信する作家のエミール・ゾラは、1898年1月13日付けの『オロール』紙に、フェリックス・フォール大統領に当てた「私は弾劾する」という文書を書いて、この判決を批判した。こうして、この事件をめぐって世論は二分し、フランス第三共和制を揺るがす大事件となった。当時のヨーロッパにおいて、反ユダヤ主義がいかに力を持っていたかを物語る事件である。とくに軍部とカトリック教会は、反ユダヤ主義に傾きがちであった。
1899年に再審となったが、6月に破毀院は1894年の判決を破棄したものの、8月のレンヌ軍法会議はドレフュスに再び有罪を宣告した。しかし、ドレフュスは大統領特赦で出獄した。そして、遂に1906年7月12日に破毀院はレンヌ軍法会議の有罪判決を無効としたのである。