ソレルの批判
このドレフュス事件の顛末を厳しく批判したのが、ジョルジュ・ソレル(1847〜1922年)である。
彼は、マルクスやプルードンの影響の下に、資本主義打倒の道をフランス労働運動の実践のなかに求めていったが、その理論的集大成が1908年に公刊された『暴力論』である。そこでは、ブルジョアジーの暴力(force)に対抗するには、プロレタリアートの暴力(violence)が必要であること、そしてその具体的方法としてゼネストがあることが説かれている。
しかし、彼の説く直接行動主義は、その経済第一主義、非政治性のために政治的にはあいまいな解釈を許すことになり、その後、左右両翼の諸運動がソレルのサンディカリスムにその理論的支柱を見いだすことになった。左翼ではレーニンやイタリアのA.グラムシ、右翼ではムッソリーニである。
ソレルはドレフュス支持派であり、ゾラの「私は弾劾する」発表と同年に、『証拠』という本を出しているが、ドレフュスを擁護する人たちを厳しく批判した。支持派の大衆を、「始末に負えない群衆で、モッブ(暴徒)」と切り捨て、今で言うポピュリズムを問題にしたのである。さらには、「言論人も政治家もドレフュス事件を利用して自分が出世しようとしている」とこき下ろす。
ゾラの「私は弾劾する」についても、「抽象的な飾り文句が多すぎるし、無知蒙昧な大量の大衆を街頭に送り出した張本人だ」と酷評した。反ドレフュス派についても、同様な批判を投げかけている。
そもそも、ドレフュスが無罪ならば、1899年に特赦ではなく、無罪を確定すべきであるというのがソレルの主張であり、無罪確定までに、さらに7年間を要したことを問題にした。
ソレルは、大衆社会の危険な状況を認識しており、「民主主義が全体主義になり得る」ことに警鐘を鳴らしたのである。
このソレルの批判は、SNSが「モッブ」を動員し、選挙結果にも大きな影響を与えている今日にも通用する。