ところがあろうことか、かれが「出そう」といってくれたのである。松任谷由実論だったら出してないよ、といった。そののち、かれに連れられて、吉本さんにもお会いすることができた。
吉本隆明論はいまから14年前、Y氏という編集者のご尽力で陽の目をみた。現在のわたしに、もう思い残すことはなにもない(いまでは、学生時代の友人Nとも編集者O氏とも疎遠になってしまったが)。
わたしはある意味では運に恵まれている気がする(しかしここには書かないが、小さな不運や失敗も多々あるのだ)。
総じてわたしの運・不運率は9勝6敗といったところか。
「死ぬヤツは死ぬ」
今後の運・不運というものは、わたしの死に関してである。
わたしはいつどのようにして死ぬのか。だれもわからない。
人生のほとんどは運である、と考えることのいいことは、あれこれ無駄な考えをしなくてすむことである。
医者で作家の久坂部羊が、デイサービスのクリニックで知り合った、83歳の老人のことを書いている。
かれは死ぬのは怖くないという。「死んだらなんにもわからんもん」。
しかし久坂部が、「寝たきり」になるのはいやでしょうというと、「それはいややな。けど、考えたってしょうがない。寝たきりになるヤツはなるし、死ぬヤツは死ぬよ。軍隊でもそうやった。ようけ友だちも死んだけど、お守りを両手いっぱいに持ってても、死ぬヤツは死ぬ。千人針を巻いてても同じやよ」(久坂部羊『寿命が尽きる2年前』2022、幻冬舎新書)
「死ぬヤツは死ぬ」という言葉は、情け容赦がないが、事実である。
人は、人生において、どうしようもない理不尽な目に遭うことがある。そんなときに、それは運が悪かったんだ、という軽い言葉に納得できるわけがない。
けれど、なぜわたしが? なぜわたしの家族が? と考えても答えはない。理不尽はどこまでも理不尽で、個人の意志など全然関係がないからである。
わたしは、わたしがいま生きているのは運がいいだけ、ということに納得している。いつか死ぬだろうが、それは運が尽きるだけ、ということにも納得する。