思わぬところから生じた軍事改革

この流れで武士たちは、「その場の判断で兵種を再編するのが難しくなってきた。ならば、初めから〈兵種別編成〉の軍隊にしてしまえばいいのでは?」と思い至ったらしい。
それが可能な条件は整いつつあった。
大名の直属兵「旗本」が増えていたのである。
戦国時代は、旗本増加の時代でもある。大名が国内の領主を吸収、解体して、直属化していく。しかも彼らを城下町に移住させる。これで大名が「さあ遠征だ」と連れていける兵数が増えていく。
ここに大名は、〈兵種別編成〉を制度化する。
武装と人数をその場その場で入れ替えるのではなく、あらかじめ計画的に「50人は弓、30人は馬上」と定めて、明確な人数の武装からなる部隊編成を整備してから戦争に赴くようになるのである。
そこまでは、自然の流れである。ただ、ここで誰も想定しない展開が起きてしまう。
信濃国の村上義清だ。
義清は、甲斐国の武田信玄に圧迫されて、家臣たちを大量に失っていた。そこで巻き返しを図ろうと、家臣の遺族や実力不足の人々を集め、「合図をしたらお前は弓を使え、お前はそのあと長柄の武器で突っ込め、そのあと俺たち騎馬武者が敵本陣に突撃して、信玄の首を狙う」と指示して、その作戦を実行した(乃至政彦『戦う大名行列』)。
乱暴なやり方だが、これがあと一歩というところまで成功したらしい。
二月一四日、近所の塩田原(上田市小泉字塩田川原)という地で、甲斐の武田信玄さまと村上義清どのが合戦なされました。[中略]信玄さまが戦傷を負わされました──
(『妙法寺記』天文一七年[一五四八]条)
義清が信玄に怪我をさせたのである。
しかし義清は武田軍に押されて撤退。その後、拠点を捨てて、越後国の上杉謙信を頼っていく。そこで義清は謙信に「こうやって戦いましたが、うまくいきませんでした」と自分の戦いを説明。
すると謙信は義清の話を聞いて、信玄を討ち取るならこれしかないと思ったらしく、義清の臨時編成を大胆に取り入れることにした。
義清の編成は通常の〈兵種別編成〉と違っていた。
そのオリジナリティは、練度の低い集団それぞれに兵種別の役割を担当させ、敵の総大将討ち取り一本に絞られているところにある。
決死の覚悟で編み出された苦し紛れの戦術ではあったが、実際にやってみると、武田軍は有効な対抗策を取れなかった。
謙信には、充分な兵数と資金がある。そこで、旗本にこの編成を取らせて、大規模化することで、上杉軍を「信玄討ち取り専門の軍隊」に作り変えることにした。
そこで出来上がったのが〈兵種別編成〉の状態で行列を組ませて、戦場を移動する方式の軍隊だ。
敵を見つけたら急接近し、その指揮官を討ち取りの攻撃を開始する編成である。義清と謙信の作戦には、兵種と兵種の連動攻撃という先進性があった。
後にいう「車懸り」がこれである。
永禄4年(1561)9月10日、謙信はこの隊列で、信玄実弟の武田信繁、参謀格の山本勘介、古参の室住虎光といった重要人物を討ち取り、信玄とその長男・武田義信をも負傷させた。
最終目標の信玄討ち取りこそ成功しなかったが、指揮官を討ち取る戦術として実用的であることが、広く示された。ここから東国では謙信方式の軍隊編成が模索されることになる。