武士の衰退、足軽の台頭、鉄炮の登場
領主別編成は、その時の判断で〈兵種別編成〉に切り替えることがしばしばあった。『将門記』『平家物語』『太平記』などの軍記を見る限り、そう判断せざるを得ない。
ところが戦国時代になると、これが難しくなっていく。①戦闘技術者の消耗が激化し、②足軽雑兵の人数が増え、③鉄炮という新兵器が登場したためである。
①から説明しよう。戦国時代は日本各地で延々と戦争が続いていた。
武士は無理な戦い方を好むところがあり、戦乱が増えるにつれ、兵員の消耗が激しくなっていく。すると、万能戦士たる個人戦の技術が衰えていく。
すると、武士の「補充」(いい言葉ではないが、とりあえずそう表現する)が追いつかなくなってしまう。
貴重な戦闘技術者が減っているのだから、当然のことだ。重装備で騎乗したまま弓射できる古典的な精兵は減っていく。
人命ばかりではない。戦場で倒れた者を回収できないことも増えてくる。すると、先祖代々の高価な武装を失う武士も増えてくる。結果、ろくに鎧や兜を着用せず、鉢巻や腹巻だけで参戦する輩が目立つようになる。
そして②。足軽・雑兵の増加である。戦国時代初期までの足軽たちは、正面切っての戦いに参加することはなく、放火や略奪、建築資材の回収および軍事施設の設営など、武士が好まない仕事を請け負うのが一般的だった。
しかし、やがて集団で集めて組織的な歩兵として扱われていく(元の通りの仕事をする「足軽」も別に併存)。「雑兵」である。雑兵は戦場になくてはならないものと化していった。
ここに③の要素が加わる。新兵器「鉄炮」の伝来である。鉄炮は弓と異なり、武士なら誰にでも扱えて当然とは見られなかった。伝来のタイミングが100年ほど早ければまた違ったかもしれないが、武士よりも先に足軽の使用が目立っていた。
天文19年(1550)7月14日付けの畿内の公家の日記に足軽が鉄炮を使った記述がある。
「一万八千」の三好軍が上洛して、市街で幕府軍が交戦した時、「足軽100人ばかりが打ち出て、戦闘になった。三好長虎の寄騎1人が鉄炮に当たって戦死した」(『言継卿記』)というのである。
通説では、これが日本の合戦における初の鉄炮犠牲者ということになっている(個人的には異論があるが)。通説の是非は別として、鉄炮で1人犠牲者が出ただけのことが丁寧に記録されているのは注目に値する。
これら①②③の要素が重なり、やがて日本国内の鉄炮の数が急増するに連れて、もはや戦場にある武士が、現場の判断で領主別編成から〈兵種別編成〉に切り替えられる時代は終わった。