吉宗が田安家と一橋家を立てた理由は?
次に、御三卿のなりたちをみていきたい。
御三卿の中で最初に創設されたのは、田安家である。
享保16年(1731)、吉宗の次男・宗武が、17歳の時に江戸城の田安門内に屋敷を与えられて居を移し(土岐善麿『田安宗武 第1輯』)、田安家がはじまった。
賢丸は、宗武の七男だ(高澤憲治『松平定信』)。
松平定信像
田安家の次に創設されたのが、一橋家である。
吉宗の四男・宗尹は天文5年(1740)、20歳の時、江戸城の一橋門内に屋敷を与えられた。
翌寛保元年(1741)、宗尹はこの屋敷に移り住み(辻達也編『新稿一橋徳川家記』)、一橋家を称した。
一橋治済は一橋家の祖・宗尹の四男で、一橋家の二代目当主である。つまり賢丸も一橋治済も、八代将軍・徳川吉宗の孫にあたる。
一橋治済像
宗武を祖とする田安家と、宗尹を祖とする一橋家は、「御両卿(ごりょうきょう)」と呼ばれ、将軍に後継者がいない時は、これらの家から立てることとなった(笹間良彦『江戸幕府役職集成 改訂増補版』)。
吉宗が田安家と一橋家を立てたのは、将軍家と御三家の血統が希薄になってきたのを補うためとも、御三家を制御するためともいわれる。
だが、将軍の庶子を、すべて大名として独立させていっては際限がないので(財政的余裕がなかった)、吉宗は宗武と宗尹を、部屋住(へやずみ)として将軍家に置いておき、しかるべき大名家へ、養子として送り込もうという意図があったかもしれないと、推測する説もある(辻達也編『新稿一橋徳川家記』)。
御両卿から御三卿へ
吉宗は延享2年(1745)9月に、数え62歳で引退を表明。
田安家と一橋家は、翌延享3年(1746)、九代将軍・家重から十万石の領知が与えられた。
宝暦元年(1751)6月、吉宗は68歳で没するが、御三卿の最後の一つ、清水家は、吉宗の没後に創設される。
九代将軍・家重は亡父・吉宗に倣い、宝暦8年(1758)、次男の重好(当時は万次郎)に、江戸城の清水門内の屋敷に移るように命じた。
翌宝暦9年(1759)、15歳の重好は元服して、清水門内の屋敷に移り住み、清水家がはじまった。
清水重好は、清水家の初代当主なのだ。
清水家の誕生により、御三卿が成立する。
宝暦12年(1762)、清水家も田安家や一橋家と同様の領知十万石を拝領した。