人間とは共感によって結びつく存在
人間が集団で生きることの意味は、脆弱な個体が力を合わせて生存可能性を高めるというだけではありません。そもそも人間というのは、共感という生まれ持った性質によって結びついているのです。
アリストテレスは、『政治学』の中で、「人間は社会的(ポリス的)な動物」であり、「ポリスの外に生きる者は獣か神しかいない」と書いていますが、個人と社会の間には、複雑な緊張関係があります。
そして、この個人と社会をつなぐ学問が社会学です。個人は社会によってどのように生かされるのか、或いは抑圧されるのか、そして組織や集団の外の中という立ち位置以外の中間地帯はあるのかという社会学的な問題については、また別の機会に論じてみたいと思います。
このように、「教養とは何か?」を自分なりに考えた結果、「我々は何者で、どこから来て、どこに行くのか?」という根源的な問いを頼りに、人類が延々と築き上げてきた知の集積を、「学習→思考→実践」というプロセスを通じて自らのものにしていくことだという結論にたどり着きました。
しかしながら、こうした私なりの結論は、実は仏教における学びの方法である「三慧(さんえ)」として、二千年も前から語り継がれてきたことだったのです。
三慧というのは、仏教用語で、悟りに至るための三つの智慧、聞慧(もんえ)、思慧(しえ)、修慧(しゅうえ)を指します。
聞慧(もんえ):仏典や師の説法などの教えを聞いて得られる智慧で、知識としての理解の段階です。これは、他者からの教えを受け入れる姿勢を養うことでもあります。
思慧(しえ):聞いた内容について自分で考えることで得られる智慧で、理性的・論理的な理解、つまり、熟考・分析です。この過程で、教えの意味や意義を自分なりに解釈し、内面化していきます。
修慧(しゅうえ):実践(修行)によって体得される智慧で、瞑想や坐禅などを通じて、体験的・実存的に悟る段階です。ここで、教えが単なる知識から生きた智慧へと昇華されていきます。