悟りに至るための道筋を示す「三慧」

 三慧は、天台宗や真言宗、禅宗などにおける基本的な智慧の修得プロセスとされ、禅、念仏、戒律など他の修行方法との間には、次のような違いがあります。

禅(坐禅):三慧が段階的な学びのプロセスであり、理性と思索を重視する知的な修行であるのに対して、禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」(言葉や理論に依らず、直接的な体験と沈黙の中で真理をつかむ修行)であり、むしろ「聞」や「思」を手放すことを目指します。つまり、三慧が理性的プロセスであるのに対して、禅は理性を超えた直感的体験であると言えます。

念仏:三慧が自力修行によって智慧を高め、悟りに至ろうとするプロセスであるのに対して、浄土教の念仏(南無阿弥陀仏)は他力本願によって阿弥陀仏の慈悲にすがり極楽往生を目指すもので、「聞」や「思」よりも「信」が重視されます。つまり、三慧が自力修行であるのに対して、念仏は信仰による他力救済の道なのです。

戒律:三慧が内的な智慧の深まりを目指す知的実践であるのに対して、悟り(涅槃)に至るための実践項目である「戒定慧(かいじょうえ)の三学」のひとつである戒律は、行動の規律を通じて心を整え、煩悩を抑える修行です。つまり、三慧が内面の理解と行動の統合であるのに対して、戒律は行動規範の遵守という外面からの自己制御であると言えます。

 以上のように、三慧とは、知識を得るだけでなく、それを深く理解し、実践することで真の智慧を得るという、仏教の核心的な教えです。つまり、「知識・学習→熟考・分析→実践・体得」というプロセスを通じて、単なる情報や思考を超えて、深い智慧、即ち、悟りに至るための道筋を示しているのです。

 ですから、私が考える教養に至るプロセスにおける、外から学び取る「学習」は「聞慧」に、内省して意味づける「思考」は「思慧」に、そして実際に生き方として現す「実践」は「修慧」にそのまま合致するのです。

 更に、仏教における三慧が何のために求められるのかと言えば、それは法(真理)を理解して悟りに至るため、つまり「無明(むみょう)」から脱却するためです。