反戦運動を機に関東で米軍基地返還が相次ぐ
ベトナム反戦運動は、日本国内でも大きな動きとなりました。そのなかでも特に大きかったのは、在日米軍基地に対する反発だったかもしれません。
ベトナムに出撃する米軍は、主に沖縄から出撃しました。しかし、日本本土に置かれた米軍基地も積極的に使用されていきます。東京都の横田基地や立川基地、山口県の岩国基地などは空軍の拠点として、神奈川県の横須賀基地や長崎県の佐世保基地などは海軍・海兵隊の拠点として使用。そのほか、神奈川県内の補給基地や東京都北区の医療施設なども積極活用されました。
当時の新聞報道によると、そうした軍事拠点では戦争で破壊された航空機や軍事車両の修理や点検を継続的に実施。負傷者や遺体となった兵士らも運び込まれたとされています。
そんななか、世界的な反戦運動の高まりもあって、本土の米軍基地周辺でも「ベトナム戦争反対」を叫ぶ抗議活動が頻繁に起きるようになります。ときには軍事物資を運ぶ国鉄(現・JR)の列車を実力で止めようとする動きも起きました。
反戦運動が反基地運動となり、やがて反米運動になるかもしれない――。
そうした懸念が強まったことも手伝い、米当局は日本側と協力し、関東地方にあった米軍基地を一気に縮小させる計画を進めます。その結果、東京都内では1971年のキャンプ王子を皮切りとして、キャンプ朝霞(北区ほか)、大和空軍施設(東大和市ほか)、調布基地、府中空軍施設、立川基地などが次々と返還されました。このうち、立川基地の一部は広大な「昭和記念公園」となり、練馬区の米軍住宅・グラントハイツは現在、大規模団地「光が丘団地」へと姿を変えています。

返還された米軍基地は東京都内だけではありません。茨城県にあった総面積1182ヘクタールの米軍水戸対地射爆場は1973年に返還。その敷地の一部は国営ひたち海浜公園となっています。
海を望む公園では、この春も見事なネモフィラが咲き乱れ、あたり一面を薄紫色に染めました。この美しい土地でかつて、ベトナム戦争に参戦する米軍の射爆訓練が行われていたことを知る人は、そう多くないかもしれません。