米国の穀物過剰生産問題、日本が解消のはけ口にされた歴史
戦後の日本は、農地解放などの政策によって食料自給率を回復させ、70%を超すまでになった。そこに転機となったのが、1960年の日米安全保障条約の更改だった。ここに両国の経済協力事項が新たに加えられる。
これによって工業化が進んでいた日本は、安価で性能のよい工業製品を米国に輸出、米国からは生産性に長けた小麦や大豆、トウモロコシなどの穀物を輸入する。この対米型貿易構造を確立したことで、日本は戦後の高度経済成長を迎えた。それに伴って、日本の食料自給率は低下の一途をたどる。
もっとも、米国には穀物を売りたい思惑があった。第二次世界大戦中の米国は食料の増産体制に入っている。それは自国の防衛のためではなく、戦争終結後に訪れるはずの東西冷戦に備え、とりわけ戦場で荒廃した欧州でどれだけの国を西側に引き込むことができるか、そのために食料援助を武器にする目的だった。
ところが、戦後から10年も経つと、欧州も復興が進み食料も自給できるようになっていく。米国内では穀物の生産過剰が問題になっていた。そこで目をつけたのが日本だ。
日米安全保障条約が調印された同じころ、日本には35頭の生きた雄豚が米国から到着した。それも直行便もない時代に米国空軍が全面協力し、プロペラ機によってハワイやグアムなどを経由しながら、種豚をアイオワ州から空輸してみせたのだ。この「ホッグ・リフト」と呼ばれる前代未聞のプロジェクトは、前年に台風で大きな被害を受けた山梨県へ、のちに戦後初の姉妹州県となるアイオワ州から友好支援として送られたものだった。養豚技術の指導員も派遣されている。
これがきっかけとなって、日本の養豚業が近代化していった。いまでは日本で飼育されている豚の99%以上が、この35頭の何らかの遺伝子を持つとされる。
それと同時に太平洋を船で渡って送られたのが1500トンの飼料用トウモロコシだった。近代の養豚にはトウモロコシが必要だと教えたのだ。アイオワ州は米国の穀倉地帯に位置していて、トウモロコシと大豆の生産がもっとも盛んなところだ。日本のトウモロコシ需要が伸びていく。