名人戦の起源は徳川時代

 その歴史は古く、その起源は徳川時代に確立した「終生名人制」にあるとされています。いったん名人の称号を得た者は、終生名人となるというこの制度。それに対し、昭和になると、近代将棋のあり方を模索する動きも出てきました。そして1935年(昭和10年)、当時の関根金次郎・十三世名人はその座を後進に譲る仕組みをつくった方が将棋界の発展につながると考え、引退を申し出ました。

 それに伴い、当時の金易二郎・日本将棋連盟会長は「300年の伝統を持つ一世名人の制度を廃し、これに代わる短期交代の名人制を創設する」と発表。名人の選定は実際の対局の成績によって行うと宣言したのです。将棋界始まって以来の大改革でした。

 そして同年、名人戦の主催は東京日日新聞社と大阪毎日新聞社に決定しました(両社は後に合併して「毎日新聞社」となる)。開催を告げる社告には「第一回名人争奪大棋戦」「将棋界空前の快挙」「本社独占の棋譜」という大見出しが踊りました。優勝者を決める戦いは1935年6月に初戦が行われた後、2年半にわたって続き、木村義雄八段が初の実力制名人となりました。

 その後、日本将棋連盟と共に名人戦を主催する新聞社は、毎日新聞社から朝日新聞社へ、さらに朝日新聞社から毎日新聞社へと目まぐるしく変わります。いずれも提供する賞金の金額をめぐる争いだったとされていますが、2007年から両新聞社の共催という形に落ち着きました。

 現在は5組に分かれてリーグ戦を行い、最上位の成績を収めた棋士にタイトルホルダーへの挑戦権が与えられます。名人を決める7番勝負は例年4~7月。それぞれの対局では、各人が最長9時間の持ち時間(2日制)で戦います。